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友が島 [煉瓦研究ネットワーク東京]

最低月1回は更新しようと思っているのに、前回更新から既に2か月経ってしまいました(^^;;っっ

さて本題に入る前に、30日のオフ会・・・平成最後のオフ会に多くの方がご参加表明いただき、ありがとうございます。

英ちゃんさん
katakiyoさん
YUTAじいさん
kinkinさん
さる1号さん
koh925さん
ともちさんとおぼっちゃま
Rchoose19さん
parasolpainさん
chibidraさん
駅員さん

以上12名となりました。
 ☆日時 4月30日 13時00分からの昼食
 ☆場所 新宿西口ヨドバシカメラ裏のシーアン新宿西口店
 ☆予算 5000円 飲み放題

よろしくお願いします。


さて本題の友が島です。

2016年の初上陸以来何度もお天気は上々なのに海が荒れて渡れず、今回はと気をもみましたが、無事上陸を果たすことができました。
これで3勝3敗となりました。
今回は何と言っても島で一泊するという暴挙・・・いやいや快挙で最後の船が本土に帰ってから、翌日朝一便の船が来るまで、誰にもジャマされずにゆっくり堪能することができました。


さてさて、膨大な枚数の写真を撮り現在整理中なので、さわりだけの写真をアップします。
今回の遠征は、帰還後同行者が建築の専門家に見せたところ、建築の歴史がわかるような非常に貴重なものが現存していることが判明するなど、非常に多くの成果を上げることができました。

今回はお天気に恵まれてこんな素敵な海を見ることができました。

9紀淡海峡を外洋に出ていくコンテナ船 190419_080433.jpg

今回1日目は、垂水北兵舎跡⇒第四砲台⇒虎島⇒第三砲台⇒電燈所⇒火薬本庫 と回りました。

まずは虎島の全景写真です。

4虎島全景.jpg


虎島堡塁の棲息掩蔽部の一部屋の床が大きくえぐられていますが、これは陸軍財宝伝説なるものがあり、誰かが掘り出した・・・・という都市伝説がありますが、今回この穴は、戦時中に洞窟砲台カノン砲を洞窟の中に隠し、砲撃するときだけ顔を出すものを作ろうとした跡だという事が判りました。

床に3m弱の深さの穴が穿たれています。その穴の底の奥に数十メートル海方向に隧道が掘られていますが、残念ながら貫通はしていません。
今回はこの穴に降りて、中を確認しました。

5隧道行き止まり.jpg

当時の支保工なども残っています。

次の写真は第四砲台の高塁道から右翼観測所に昇る煉瓦造りの螺旋階段です。

2第四砲台らせん階段.jpg

1第四砲台らせん階段.jpg

こんな素敵な夕焼けも見ることができまた。

6夕焼け.jpg

最後に夜になってビックリ!!
亡霊が出てきたわけではありません。
なんと紀淡海峡入口から大阪湾内を見渡すと、明石海峡大橋が見えるではありませんか!!

D4に500mmで手持ち撮影です。これ以上トリミング出来ません。やっぱり三脚も持ち歩かないとダメですね!

7明石海峡大橋_190418_195307.jpg

さて、もうすでにまた行きたくなりました。




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東京湾要塞の一翼をになう『厠』の謎 [煉瓦研究ネットワーク東京]

31十勝監獄.jpg◆ 近況

おかげさまで、昨年より月1回ペースで講演等させていただいております。

今年に入り、1月に豊中市で一般市民向けの防災・減災についての講演会を、2月には帯広で企業向けにリスクマネジメントに関するお話しをさせていただきました。帯広の講演は、ちょうど12月に政府が『千島海溝大地震切迫』との発表の後ということもあり、多くの経営者の方々に熱心にお聞きいただきました。

左の写真は、帯広に行ったときに、十勝監獄の石油庫跡を見てきた時のものです。公園の中にあるのですが、人が立ち入らないところは腰高まで雪が積もっていて、ラッセルしながら撮ってきました。

 

3月は23日と24日に泉佐野市で、災害時に如何に生き延びるのかという観点からのサバイバル講座第2回、第3回をやらせていただきます。

第1回は昨年の夏に『水の確保』という観点から、飲料水などの確保が如何に難しいか、そして熱中症予防についてお話しをさせていただきましたが、第2回は『体温の保持』ということで、本当はもっと寒い時期にやりたかったのですが、日程が合わず春休みになってしまいました。

第3回は『食の確保』ということで、皆さんで屋外に飛び出して、野草を積んできて料理を作ります。どうですか、面白そうでしょう♪

さらに24日にはなんと『折り紙教室』合わせてやらせていただきますので、それも含めれば3月の泉佐野市さんでのお話しは3本建てとなります。

 

4月には東京と大阪で、企業向けに災害対策に関する個別相談会を、やらせていただくことになりました。大阪は4月20日金曜日にお邪魔します。

そうそう4月には、金沢にもお邪魔します。今年の夏に能登半島の突端にある珠洲市で第17回の日本ジャンボリーがありますが、その準備や現地との調整等で金沢入りします。

4月8日は@くまらさん、よろしくお願いします(^_-)☆!!

いまのところ5月以降の講演などの予定は入っておりません。

日程があえばどこにでも・・・行ければ・・・おじゃましますよ!!

皆様方からお声がかかるのを、首を長くしてお待ちしております。


今日の本題は『厠』です。今どきの若い方は『厠』といっても判らないでしょうね。

『厠』とは奈良時代からその用例があるようで、昔は水の流れの上に掛け渡して用をたす場所を作ったことから『川屋』が『厠』になったという説があります。中世の貴族の家の『厠』は常に用を足したものが落ちる場所には水を流していたということですから、水洗トイレだったのですね。

また、字を見ると何となくイメージができると思いますが、近世まで日本のトイレは母屋に隣接した外に設けることが一般的であったことから、『側屋(かわや)』が厠になったという説もあります。

 

なんでまたその『厠』が???

そう、今回もまた『煉瓦』ちゃんのお話しです。

昨年3月にも泉佐野市さんで講演をさせていただいた際、友ヶ島に渡ったことは既にお知らせ済みですが、その時に友ヶ島の隣の虎島にある堡塁を探訪したときに、煉瓦造の厠の遺構が比較的良い状態で残っていたことが、事の始まりです。このときすっかり『厠』のとりこになってしまったのでした!!

そんな『厠』が、虎島まで行かなくても、なんと横須賀にもあるということを聴きつけた僕は、行きたくて行きたくてしょうがなかったのですが、ようやく2月の初めにソネブロきっての刻印ハンター@ちょいのりさんをさそって横須賀は観音崎砲台へと向かったのでした。

でも実は観音崎砲台に行く前に寄った千代ケ崎砲台の方がメインになってしまったのは、ご愛嬌。

11千代ケ崎.jpg

上の写真は、千代ケ崎砲台の棲息掩蔽部と砲側弾薬庫の隧道。

右上に小さな煉瓦アーチの入り口がありますが、ここに入ると、奥で右に折れ、突き当りにある換気口をなんと各種の刻印のある耐火煉瓦で埋められています。・・・誰がやったのかなぁ・・・なんで埋めたのかなぁ・・・

おっと、話しを元に戻して、それでは『厠』のお話しのはじまりはじまり♪


◆虎島堡塁附属施設の厠

虎島堡塁は、紀淡海峡に侵入してくる外敵から商都大阪を守る為に築かれた由良要塞を構成する砲台の一つだ。隣接する友ヶ島においては、第3、第4砲台には、将校用の家屋が残っていることから、そこには『便所』があったものと推測できる。その他は、第5砲台入口に立っている門柱を入ると、すぐ左手に厠のようなそれらしい煉瓦造一部木造瓦葺の建物があるが、それが『厠』かどうかは未確認である。3月にも友ヶ島に行く予定なので、ぜひとも確認してみたい。それ以外には当時の『厠』の遺構は知る限り見当たらない。

21虎島軍道.jpg


写真は、友が島から虎島を見たところ。

明治時代に造られた軍道は台風で中央部分が破壊され、今では干潮時に崩れた瓦礫の上を伝って渡るしかない。

虎島堡塁は明治28年10月に着工し、明治30年2月に竣工している。友が島からこの軍道を渡って虎島に入ると左手から山に続く道がある。九十九折の道を登ること10分くらいで堡塁入口の煉瓦造りの門柱に行き当たる。

厠は、その手前右手に半ば雑草に埋もれるように立っていた。明治27年5月に改定された『砲台建築仕法通則』に則って建てられている(近代築城遺跡研究会編由良要塞 Ⅰ 95ベージ)ことから、虎島堡塁の建設時に付属施設として造られたと考えていいだろう。煉瓦積みはオランダ積みだ。

屋根は完全に落ちているものの、梁等の木材の破片や瓦の破片が残されていることから、屋根は瓦葺だったようだ。次の写真は、小用側から大用を見たところだ。上部に梁の一部が残っている。

23虎島厠1.jpg

 

25虎島厠3.jpg

出入り口は前後に2か所、アーチづくりの入り口があり、中に入ると、海側に小用スペースとなっており、目の高さの位置は煉瓦を抜積みしていて、市松模様に小窓が開いている。山側には大用があり、おそらく便壺の上あたりに汲み取り用の四角い窓が開き、顔の高さくらいの場所に十字に抜積みの窓が開いている。汲み取り窓の数から、大用には4つの個室があったことが分かる。

次の写真は、大用から小用の方を見たところ。

24虎島厠2.jpg

抜積み部分には十数個の刻印が確認できる。これは堺煉瓦の刻印だ。

32虎島厠刻印1.jpg

 

33虎島厠刻印2.jpg

外には、手を洗う場所なのだろうか、コンクリート製の台があるが、貴重な水は雨水を溜めていたのだろう。このすぐそばに監守衛舎の遺構と推測する土台のみの遺構があるが、ここにはコンクリート造りの濾過・貯水槽が見られた。


26虎島厠5.jpg
次の写真が、監守衛舎跡の脇にある雨水などを集めて飲料水にするためのろ過水槽である。

22虎島浄水施設.jpg


◆観音崎砲台の厠

観音崎に行く前に色々調べたが、厠に関する資料は前掲『近代築城遺跡研究会編由良要塞』に取り上げられているものしか見つからなかった。

同書では、明治24年9月に陸軍大臣に提出された『砲台附属厠建築之件』において、「東京湾防御砲台の中で厠があるのは第一海堡のみで、観音崎砲台に2か所、米ヶ浜砲台に1か所厠を建設する必要がある」と述べていることから、観音崎の厠は明治24年以降のものだろうと推測している。この文献は、最後に私なりに解読したものを載せているので、もし違っていればご教授願いたい。

10指令案.jpg

現地に赴くと近くの駐車場に車を止めて、徒歩で目指した。

高さ2m位のほぼ垂直な石垣をよじ登ると、鬱蒼とした雑木林の中をやぶ漕ぎしながら進む。小さな谷戸を登っていくと、それは突然現れた。

1観音崎第一厠.jpg

谷戸に平行するように配置され、谷川と山側にアーチ状の入り口が開いている。

虎島の厠は通路を中心に配し、左右に小用と大用を設けていたが、ここは片側に大用のみ設けているため、入口は谷から向かって右側にオフセットされている。

2観音崎第一厠.jpg

ぐるっと周囲を回ると、山川の入り口の壁は上部が崩れているものの、屋根の梁材や瓦は見つからなかった。

虎島の厠と同じく大用の壁には十字の抜積み窓が開いているが虎島のものとは異なり、上部に煉瓦を5個使用して小アーチを造って装飾している。


そして何よりも驚いたのは、フランス積みなのである。要塞建築における煉瓦積みは、明治20年以降はイギリス積み、あるいはオランダ積みへと変化している。

積み方といい、十字の抜積み窓の手の込んだ小アーチといい、明らかに明治10年代の建築と思われる。

使用されている煉瓦を観察すると、小菅集治監の桜の刻印が多くみられる。

3観音崎第一厠.jpg

続いて向かったもう一つの厠も、雑木林をやぶ漕ぎしていくと、小さな谷戸に今度は直角に交わるように立っていた。

残念ながら、荒廃は進み、山側の壁と左右の出入り口の一部の壁を残して谷側の壁は谷に向かって倒れている。次の写真は山側から残っている壁を撮ったのだが、後ろに木などがあり、下がることができず、超広角で撮影している。

9観音崎第二厠.jpg

 次の写真は、谷側から山側に残った壁を望んだところ。最初の厠と違い、内側にモルタルが塗られている点だ。

8観音崎第二厠.jpg

最初に見たものと全く同じ構造で、谷側に通路を配し、山側に大用の個室を設けて、下には汲み取り用の窓が、上には十字の抜積み窓があいていて、小アーチで装飾されている。こちらも明らかに明治10年代の造りと思われる。次の写真は、左手が山側で、右手の壁が切れている部分にアーチ状の入り口があった。

7観音崎第二厠.jpg

この2か所の厠から一番近いのが旧第3砲台だ。旧第3砲台は、明治15年に着工されており、砲側弾薬庫や通路などはフランス積みで造られていることから、旧第3砲台の附属施設として同時期に建てられたとすれば、辻褄は合う。次の写真は観音崎旧第三砲台である。

4観音崎旧第三砲台.jpg
5観音崎旧第三砲台.jpg

上の写真は、砲側弾薬庫から旧第三砲台へと続く隧道で、おそらくここから弾薬をあげたものと思われる。

さて、本当に東京湾防御砲台・・・後の東京湾要塞に、明治24年当時第一海堡にしか厠はなかったのだろうか?

その当時存在した猿島砲台に、たしか厠の遺構があったはずだ。

帰宅後過去に猿島砲台を訪れた時の資料をひも解くと、浜から切通しを上っていくと、切通しの中ほどに右に弾薬庫、左手に厠跡があった。

ところが右手の弾薬庫はフランス積みであるが、左手の厠の壁は写真で見る限りオランダ積みで積まれていて、明らかに築造年代か違う。おそらく厠は、明治20年代以降に造られたものなのだろう。

この不整合の謎を如何に解き明かすのか、この謎解きが面白くて煉瓦探訪は止められない。



以下文献を打ち直してみたものだ


工第一00号

受領番号伍第六四一号

庁名 工兵第一方面

件名 砲台附属厠建設の件

提出 二十四年九月一日

指令案

伺の通

 

砲台附属厠建設の義に付き伺

一金五百三十一円四十八銭 厠三か所建設費

 メ

東京湾防御砲台期成の分にして厠の設あるは目下第一海堡のみにして他砲台に在りては未だ其の設無の右は有事の際適宜其場所を見計らい仮厠建設可致見込に有これ●●観音崎及び米ヶ浜両方台の如きは要塞砲兵演習の為め多数の兵員出入り致し候に付き平索と●●厠の設置必要に付観音崎砲台内に二か所 米ヶ浜砲台内に一か所適宜場所を選定し別紙説計及び図面の如くに建設致し度右費用取調候処本行の金額を可要候御許可の上は本年東京湾要塞砲台建設費の内より支弁致候因て別紙調査図書○添此の段御伺候也

 明治二十四年八月一三日

   工兵第一方面提理佐々木直前

陸軍大臣子爵髙嶋勤之助殿

 

千代ケ崎砲台のことも書き記そうとしたのだが、これだけでかなり長くなってしまったので、千代ケ崎砲台のことは、また日を改めたい。

 

12千代ケ崎.jpg





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◆オフ会のお知らせ ◆大阪遠征記 [煉瓦研究ネットワーク東京]

前回更新から1か月以上経過してしまいましたが、まだコメントやniceを頂いた方のところに訪問が済んでいないため、アップするのは如何なものかと思いつつ、大阪のオフ会にも参加させていただきましたので、ここで一度更新しておこうと思います。


◆オフ会のお知らせ

いきなりですが、11月28日火曜日に金沢のブロガーくまらさんが上京されるのに合わせて、オフ会を開催させていただきます。

場所は未定ですが、新橋か上野界隈で19時からやらせていただければと考えています。

ご参加いただける方は、左上のメールフォームから11月12日までにご連絡いただければと思います。


◆大阪遠征

10月27日大阪は淀屋橋で防災に関する企業向けの個別相談会を開催しました。10時から5社の予約を頂き夕方までぴっちりとお話しをさせていただきました。最近月1~2回ほど講演をさせていただき、そこそこ忙しく、また楽しいひと時を過ごしております。

当日朝は、東京駅始発ののぞみ1号で大阪に向かい、新大阪には8時20分に到着。10時からの個別相談会にはまだ時間があると思い、その前に一仕事・・・大坂城にほど近い玉造稲荷神社にお邪魔しました。

IMG_1064.jpg

大坂城三の丸に位置し、大坂城の鎮守社として豊臣家から篤い崇拝を受けた由緒ある神社です。

ここはまた、縁結びでも有名でも有名ですね。

IMG_1178.jpg

しかし今回の目的はこちら!!

神社西側に煉瓦塀が残っています。

DSC_0892_00013.jpg

ざっと外観を観察すると、長手積みで積まれていて、神社側はコンクリートで表面が塗られているため、煉瓦塀であることが判りません。

神社外側に回ると、この通りで目地の仕上げもなく、人目に触れることを想定していないような雑な造りになっています。

次の写真を見ると、煉瓦の長手に縦に縞模様が付いている煉瓦がたくさんあるのがお判りでしょうか?

DSC_0895_00015.jpg

これは、焼くときに窯の中に煉瓦を積み上げて並べたためにできた痕です。

煉瓦の大きさは、東京煉瓦(後の標準的なサイズ)よりやや大きめの山陽煉瓦が使われていることから明治半ばくらいまでに焼かれた煉瓦かと思います。

宮司さんは、「本殿は明治4年に建て替えられているので、その時に造られたものかもしれない。」と仰っていましたが、それよりも後の時代だと思います。

地域の歴史を調べると明治42年7月に大阪北部を中心に1.2㎢が焼失してしまった「キタの大火」があったことから、防火壁として煉瓦塀を築いたとも考えられるのではないでしょうか。
ただ、防火壁であるとするならば高さ1.5m程度しかないため、少し低いですね。


さてさて、わざわざここまで見に来たのには、理由があります。
Instagramにこの煉瓦塀をアップされたのを見て、刻印のことを伺ったところ、聞いたことのないものだったので、どうしても自分の目で確かめたくて見に来た次第です。

DSC_0874_00011.jpg

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これは、非常に珍しい刻印です。
上部中央に右から『大日本』と記されていて、中ほどには左から『BC』に続いて中央に長方形の棒を三本、三角形に配しています。そしてその右側には『HJ』と記されています。

刻印のあるところは、全体的にすり鉢状に掘り下げられていて、左右には直径1.5cm程度の円形が2個づつあります。外側が凹、内側は凸のように見えますね。

この円形は、あたかもプラスチック製品を成形するときの原料を注入するランナーのようです。
まさか煉瓦製造で、プラスチック成型のように粘土を型枠に射出成型したとは思えませんが。
詳細は現在調査中です。何かわかれば、またご報告させていただきます。


気が付くとなんと10時からの相談会に、もう30分切っているではありませんか。
いったいここから淀屋橋までどうやって行くんだ?????
公共交通機関では30分では着かないようだったので、タクシーのお世話になりました。

無事相談会が終わり、オフ会まで時間があったので、今度は天満橋まで移動して、大阪城公園へと向かいました。

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大坂城は、夕日に映えて黄金に輝いています。天満橋から大坂城を目指して正解でした(^^)
・・・が、大坂城を見に来たわけではありません。

DSC_0911_00011.jpg

大坂城は明治以降大阪砲兵工廠のあった場所で、その遺構がいくつか残っています。

DSC_0916_00013.jpg

しかしゆっくり見ているまもなく日はどんどん暮れていき、オフ会の時間が迫ってきたため、途中でオフ会の会場へと移動です。

台風22号が近づいているとは思えない素敵な夕焼けを愛でながら、歩みを早めました。

DSC_0914_00012.jpg

オフ会は、心斎橋にあるイタリアンのお店!!
いやー、おいしいものを囲んで、楽しいお話しで盛り上がり、あっという間に時間は過ぎていきます。

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参加された皆様から素敵なお土産をたくさんいただきました。
ありがとうございました。

翌日は、当初泉佐野でサバイバルセミナーをやらせていただく予定だったのですが、学校が登校日になってしまったため、延期となりました。
そこで来年1月に豊中市でやらせていただく防災の講演の打ち合わせに向かいました。
その途中こんなところでお参り!

IMG_1162.jpg

もうお分かりですね。
お初天神・・・なんとここも縁結びで有名な天神様です。

IMG_1177.jpg

今回の大阪遠征では、縁結びの神様のはしごをさせていただきました。

IMG_1164.jpg


さてさて最後になりましたが、27日に発売になった『男の隠れ家12月号』にちょこっと取り上げていただきました。よろしかったら、本屋さんで立ち読みしてみてください。
ジープが大好き! 理屈ではありません(^^)

IMG_1112.jpg


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◆BBQのお知らせ ◆東京湾要塞の一翼を担う千代ケ崎砲台3 [煉瓦研究ネットワーク東京]

駅長の旅立ちに際して、多くの方々から心温まるコメントをいただき、まことにありがとうございました。


◆ご連絡

☆彡 皆様方から「今年のBBQはいつやるんだ??」とのご質問をいただいております。

アップが遅くなり申し訳ありません、今年は、5月28日日曜日に毎年恒例の高幡不動駅近くの浅川ふれあい橋たもとでやらせていただきます。

(河川敷か、あるいは河川敷北側の空き地のどちらかでやります。当日の現場の状況次第で決めたいと思います。

 

ふれあい橋までの道順は、次の記事をご参考になさってください。

http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2012-05-04


☆彡 時間は、11時から15時くらいまでを予定しています。

準備のお手伝いをしていただける方は、10時くらいに来ていただければ幸いです。


☆彡 参加希望の方は、左上のメールフォーム、もしくはコメント欄からお知らせください。

参加費は大人1500円、中学生以下無料

毎年のように食材は用意しますので、飲み物はお好きなものをご持参ください。


◆近況

多くの方にご訪問いただき、niceやコメントありがとうございます。

相変わらずの更新頻度ですが、ご訪問いただいた皆様のところには毎日少しづつではありますが、お邪魔させていただいております。


3月の泉佐野での親子防災教室「ボーイスカウト流サバイバル術」はキャンセル待ちがでるほどの大盛況で、参加された皆様にはご満足いただけたのではないかと思います。

地元のローカルテレビでも当日の様子を放映していただき、ご覧になられた方も多いのではないかと思います。

また8月に親子防災教室の開催のリクエストをいただき、準備中です。


◆煉瓦

さて、ここからが本題です。

100千代ケ崎砲台配置図.jpg今まで2回にわたって千代ケ崎砲台の様子をアップしてきましたが、今回はいよいよ最終回となります。

棲息掩蔽部を出て一度柵門まで戻ると、左手から(配置図上では上から右側に回り込んで)砲台上部へと向かいます。

この日は抜けるような青空でお日様が照り付けて、記録写真を撮るには陰影が強すぎて苦労しました。

配置図をご覧いただくと、上から第三砲座、第二砲座、第一砲座と3基6門の砲座があります。

現在の第三砲座は、昔自衛隊の手により埋め立てられていて、平坦な土地となっています。

115塁道入口.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年度横須賀市教育委員会さんでは、この埋め立てられた第三砲座の発掘を計画されています。


第二砲座は、一度埋め戻されましたが、再度掘り出されたため、よく見ると土手下の笠石があちこちで崩れています。

137第二砲座2.jpg

第一砲座は、幸いに埋め戻されることがなかったため、保存状態は良好です。

前回アップした砲座の写真は高塁道(砲座と砲座を結ぶ隧道)から第一砲座を撮ったものです(次の写真は再掲)。

128第一砲座2.jpg
次の写真は、上部に写っている隧道が砲座と砲座を結ぶ高塁道で、上の写真は、この隧道の入り口から撮ったものです。
128第一砲座4.jpg
次の写真は砲座の中から高塁道の入り口を振り返ったところです。
128第一砲座.jpg

 

砲座の周辺にはアーチ型のへこみがありますが、ここは弾薬庫から引き揚げた砲弾を並べるロッカーの役割を果たしていました。これは大小の違いがありますが、友が島の観測所にも見ることができました。

 

両翼観測所と砲座の間は土管を埋設して伝声管としていました。

次の写真は砲座からみた伝声管の内部です。

129第一砲座伝声管.jpg

 

千代ケ崎を訪れた日はとてもお天気がよく、西を見ると富士山が綺麗に見えていました。

きっと、明治の世にこの砲台に配属された兵士たちも同じ風景を観ていたのでしょうね。

富士山2.jpg


東に目を転じると、浦賀水道を行き交う大型船がおもちゃの船のようで、手を伸ばせば掴めるように観えます。(千代ケ崎から房総半島を望んだちょうどいい写真がなかったので、浦賀の渡しの写真でごまかします(^^;;っっ)

101浦賀の渡し.jpg

そして海の向こうには房総の山々が一望できて、昔と変わらぬであろう風景に見とれてしまいます。

 

目を近くに転じると、冒頭の配置図の右下外側に位置する場所に地下施設の排気口が見えています。

煙突のように高さ2mくらいのコンクリートの平べったい枡状のものが建っていますが、これは本来上部のみが地上に出ているものです。おそらく周辺の地面を切り取って整地したため、本来地下に埋められていた部分が露出したのでしょう。

139地下施設外部排気口.jpg

ここには陸正面砲台(浦賀湾、久里浜に上陸してくる敵に対する防御を目的とし、臼砲、カノン砲、機関銃座からなる)の棲息掩蔽部、あるいは弾薬庫があるものと思いますが未確認です。

ちなみに今まで紹介した第一砲座から第三砲座は、浦賀水道に侵入してくる敵艦船からの防御が目的で、海正面砲台と言います。


次の排気口の写真は紀淡海峡にある由良要塞の深山砲台の換気口です。

夏島砲台にあるものも、ここ千代ケ崎砲台にあるものもほぼ同一の作りをしています。

 

換気口地上部2.jpg
次の写真は、内部の吸気口になります。この写真も深山砲台のものを掲載させていただきました。
換気口吸気部2.jpg

このほか丸い形状で土管のようなものが地上まで伸びているものもあり、猿島や友が島、深山にもありました。

おそらく、築造年代の違いなのでしょう。

 

冒頭の配置図を下の方まで進むと、地図の外側に小さな谷を挟んで向かいの小山にも煉瓦の隧道が見えます。ここが右翼観測所です。

138右翼観測所地下入口2.jpg

 

138右翼観測所地下入口.jpg

 

ここでも焼き過ぎ煉瓦を45度の角度に配置されていることが確認できます。
次の写真は、右翼観測所の主観測所(写真左)と、補助観測所(写真右)です。

2017.05.02右翼観測所 (1).jpg

写真出典 近代築城遺跡研究会編 (由良要塞Ⅱ26ページ))

 

ここ千代ケ崎砲台の左翼観測所は、配置図をご覧いただくと第三砲座の上に、地下に配置された『左翼観測所附属室』が記されていますが、観測所本体は、残念ながら原型をとどめていません。


さて、3回にわたって東京湾要塞の一翼を担う『千代ケ崎砲台』をご紹介してきましだか、如何だったでしょうか?

千代ケ崎砲台の特徴をあげるとすれば、以下の三点でしょう。、

 1.焼過煉瓦の使い方

   棲息掩蔽部の正面外壁は、焼過煉瓦を使って雨水や湿気の侵入を防いでいる

   隧道入口などに焼過煉瓦をななめ45度の二等辺三角形のように積んで、対候性を増している

 2.ねじりまんぽ(斜架拱)が使われている

   隧道に斜めに交差する出入り口3か所に東京近郊では初めて確認されたねじりまんぽの技法が使われている

 3.要塞築城技法後期の特徴

   要塞築城技法は『砲台築設要領』に基づき築かれていますが、その要領の書かれた明治10年代(猿島砲台がこれに属します)の前期、改訂された明治20年代前半(夏島砲台がこれに属します)の中期、そしてさらに改訂された明治20年代後半の後期の三期に分類されますが、ここ千代ケ崎砲台は後期の特徴をよく表しているように思います。


次回は、いよいよ紀淡海峡(紀伊半島と四国の間)を守る由良要塞についてご紹介させていただきます。

一足早く写真を数枚アップさせていただきましたが、もうここはおそらく何回いっても興味が尽きることはないと思います。

今まで東京湾要塞の『猿島砲台』、『夏島砲台(非公開)』、そしてここ『千代ケ崎砲台(非公開)』について学んできました。

その後で、由良要塞の本土側にある『深山第一、第二砲台』、さらには海を渡って『友ヶ島砲台』を巡ると、東京湾要塞と由良要塞の様々な共通点や相違点など、非常に興味深く見て回ることができました。お読みいただく皆様も、次回以降の記事と今回の千代ケ崎砲台の記事を比較してご覧いただくと、面白いかと思います。

 

由良要塞にいったおかげで、横須賀にも再び確認したい事項が出てきました。
なんとか近日中に和歌山で見たことを確認するために、横須賀観音崎砲台に訪れたいと切に願っているのですが・・・いつになことやら(^^;;


昨年5月に友ヶ島に念願の初上陸を果たしたわけですが、今振り返ってみるとなんの準備もしていなかったため、非常に多くの見落としがありました。

今回はその見落としを補完すべく訪問したものの、ちょっとしたハプニングなどあり、あと数回は訪問させていただきたいと考えております


乞うご期待(^_-)/

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東京湾要塞の一翼を担う千代ケ崎砲台2 [煉瓦研究ネットワーク東京]

100千代ケ崎砲台配置図.jpg大切なことを申し上げていませんでした。

千代ケ崎砲台は、戦後いったん民間に払い下げられた後、その一部を国が買い戻して海上自衛隊の通信施設が建設されました。

現在施設は撤去されていますが、防衛施設庁の管理下にあり一般公開はされていませんので、この記事をお読みになられて「よし行ってみるか!」と思われても、残念ながら中に立ち入ることはできません。


横須賀市教育委員会さんでは、今後見学会の開催を計画されるようなので、時々横須賀市のHPを覗いてみていただければと思います。


 

前回書き忘れましたが、ある痕跡を探して柵門に至る軍道の海岸沿いの入口付近を詳細に観察しましたが、なんの痕跡も見つけられませんでした。

何を探したかというと、今までの経験から軍道の入り口にはコンクリート製、あるいは木造の歩哨所があったのではと考えたからです。


107柵門.jpgさて、時空を柵門入口まで戻しましょう。

まずは上の地図をご覧ください。

上部中央に柵門があり、門を入ると正面に土塁が築かれています。ここの大部分の地上施設は、山を崩して切土で造られていますが、柵門正面の土塁盛土で造られています。

土塁を地図上で下に進むと、その先で分岐して左に緩やかに坂を下って露天塁道へとつながり、右手に進んで坂を上ると砲座の上の空間に登ることができます。(次の写真)

112土塁左回り.jpg

今回は、土塁を地図上の上から左に回り込んで進みます。緩やかな下りの坂道を進むと、土塁を右から巡ってきた道と合流し、露天塁道に繋がっています。

114塁道入口.jpgさて、地図から離れて実際の塁道に降り立ち、進んでいきましょう。右の写真をご覧ください。

右にカーブしながら下っていくと、その先で左に大きな弧を描いて、露天塁道が続いています。

カーブの終わる手前左手に、第三砲座に附属する第三弾薬庫に繋がる交通路があります。

交通路の天井はアーチを描いていて入口は煉瓦積みで施工されているものの、内部のアーチ部分はコンクリート造になっています。

118第三弾薬庫交通路.jpg

さらにこの交通路はカーブしている塁道に対して斜めに開口部が切られているため、アーチは側壁に対して渦を巻くように積まれる斜架拱(ねじりまんぽ)で積まれています。

斜架拱は、関西、特に岐阜、京都、大阪などに多く見られる技法で、関東では、旧信越本線の横川⇔軽井沢間の隧道二か所で使用例が知られているのみで、ここ千代ケ崎砲台に用いられていたことは大発見です。千代ケ崎にはこの他二か所の合計三か所に斜架拱が用いられています。

136左翼観測所交通路入口斜架拱.jpg

斜架拱については、過去に書いたこちらの記事をご覧ください。

⇒ねじりまんぽ1 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-11-20

⇒ねじりまんぽ2 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-04

⇒ねじりまんぽ3 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-31

⇒その他関連記事 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2016-07-10


この交通路の少し先の右手に、雨水を貯める濾過槽と貯水槽が並んでいます。雨水は塁道の端に埋め込まれた排水路を流れてくると、貯水槽に誘導され礫や砂でろ過されて、その隣の貯水槽に貯まります。排水路には砂が充填されていて、流路にもろ過機能をもたせていました。

排水は二系統あり、油分のある砲座や弾薬庫の排水(汚水)は、生活用水に使用する雨水の流路とは別系統の流路で排水されるように設計されています。

119第二貯水所濾過槽.jpg

120第二貯水所貯水槽汲み上げ口.jpg

濾過槽・貯水槽の対面側には、第三棲息掩蔽部があります。

側壁から煉瓦一個分程度後退させて設けられており、全面に焼過煉瓦が使用され、雨水の侵入を防いでいます。次の写真は全く同じつくりの第一棲息掩蔽部のものです。

131第一棲息掩蔽部.jpg

中央の出入り口と左右の窓の上部は小さなアーチを描いており、オランダ積みで煉瓦が積まれています。内部に入ると天井部分の煉瓦積みは入口のみで、その奥はコンクリートで施工されている点は、前述の交通路と同じで、非常に興味深いところです。

この地点から塁道の前方にを見渡すと、露天空間と隧道が交互に続いていて、光の届く明るい露天部分と、暗い隧道部分が織り成す明暗は、なんとも不思議な雰囲気を醸し出しています。

117塁道隧道部露天部の連続.jpg

この景色を見た瞬間、北海道をM38君で駆け抜けたときに立ち寄った帯広の北海道ホテルのロビーに隣接するチャペルを連想してしまいました。雰囲気がよく似ていますね。

露天塁道の被覆壁は、柵門の石垣と同じく房州石で積まれています。

次の写真は北海道ホテルのチャペルの様子です。

2013.09.06帯広.jpg

東京湾要塞は、その建設時期により依拠する建設要領から、明治10年代、明治20年代前半、明治20年代後半に分類されます。

明治10年代に類する猿島砲台の棲息掩蔽部が次の写真です。

141猿島棲息掩蔽部.jpg

わかりづらい写真しかなかったのですが、2013年に猿島を訪問した時のものです。

石造りの側壁からやや突出するように棲息掩蔽部の入り口が作られ、煉瓦はフランス積みになっています。

次の写真は夏島砲台の棲息掩蔽部ですが、こちらは明治20年代前半に類され、棲息掩蔽部は、石積みの側壁から風雨を避けるため、煉瓦でアーチを造って入口と窓は大きく後退しています。またこの時期の特徴は、中央の入り口と左右の窓の上部はアーチではなく横に一本石を渡して造られています。煉瓦は一部イギリス積みが用いられているところもありますが、大部分はオランダ積みです。煉瓦の積み方については、以下の記事をご参照ください。

http://brick.main.jp/knowledge.html

夏島2.jpg
そしてここ千代ケ崎砲台の特徴は、明治20年代後半に類されます。

第三棲息掩蔽部は、海上自衛隊の施設の痕跡で、アルミのドアが付けられて、入ることはできません。次の写真は第一棲息掩蔽部のもので、比較のため改めて掲出しました。

131第一棲息掩蔽部.jpg

第三棲息掩蔽部のすぐ先で隧道が始まります。隧道の入り口は、対候性を考慮して、焼過煉瓦をほぼ45度に配して積まれています。この二等辺三角形を描くように焼過煉瓦を用いられるのは、隧道の入り口部分だけではなく、濾過槽の入り口など、露天部分に面する様々な部位に用いられています。

122焼き過ぎ煉瓦の配置.jpg

121焼き過ぎ煉瓦の配置.jpg

隧道の中央部分に、第三砲台と第二砲台を結ぶ高塁道に繋がる交通路と、第二弾薬庫があります。

弾薬庫は前室と後室に分かれていて、後室には交通路から入るようになっています。

前室と後室の間には細い通路状の点灯室があり、前室、後室それぞれに二か所窓が開いていて、その窓越しにオイルランプで灯りをとっていました。火気厳禁の火薬を扱うことから設けられた工夫ですね。

次の写真は、前後の弾薬庫の間にある点灯室です。

123第一弾薬庫横通路.jpg

さらに点灯窓が次の写真です。後室ろから露天隧道を覗いたところです。点灯窓が3つあるとはいえ、さぞかし暗かったことでしょう。壁や天井が白く塗られているのは、灯りを反射して少しでも明るくするためでしょう。棲息掩蔽部はこのように白くは塗られていません。

124第一弾薬庫灯り取り用窓2.jpg

後室の天井には二か所に丸い穴が開いていて、真下にも数十センチの深さで丸く穴が開いています。ここは揚弾井と呼ばれ、揚弾機が据え付けられていて、ここから砲弾を引き上げて、砲座に運ばれたようです。

次の写真は、床に穿たれて凹部分です。

125第一弾薬庫揚弾機基部.jpg

次の写真は、天井に穿たれた穴を見上げたところです。

穴の先に見えている一文字のようなものは、揚弾機の痕跡です。

126第一弾薬庫揚弾機天井.jpg

次の写真が高塁道(弾薬庫の上)から揚弾井を覗いたところです。

127揚弾井.jpg
127揚弾井2.jpg

天井部分には、揚弾機を据え付けた跡が残っていますが、終戦直後の混乱期に、金属性のものはみな持ち去られたようで、跡が残るのみです。

高塁道を揚弾井を越えて先に進むと、砲座に出られるようになっています。砲座は2つ並列に並んでいるものが第一砲座から第三砲座まで3か所、計6門の28糎榴弾砲が配備されていました。

128第一砲座2.jpg

さて、砲座の様子は後回しにして、塁道に戻ります。

第二弾薬庫のある隧道を抜けて露天部分に出ると、第二棲息掩蔽部があります。ここの作りは、手前にあった第三棲息掩蔽部と全く同じ造りになっています。

第二棲息掩蔽部に入って内部から入り口を振り返ると、左右の下側に換気用の吸気口があいています。入口側から入ってきた空気は、一番奥の天井部分に地上に続くスリットが設けられて排気されています。特にファンなどを設けた強制排気ではなく、負圧を利用した自然排気です。一昔前の電車の天井についたベンチレーターと同じで、地上部に顔をだした排気口に風が吹くと排気口内に負圧が生じて、内部の空気が自然に吸い出されます。海に近く、風が止むことは少ない土地柄から、これで十分だったのでしょう。

130第二棲息掩蔽部吸気口.jpg

次の写真は、地上部部にある排気口です。実際は上部が地面に顔を出しているだけです。

139地下施設外部排気口.jpg 

さらに二つ目の隧道に入ると、左手には第一弾薬庫があります。ここも第二弾薬庫と造りは同じです。さらに進むと露天部分に出て第一棲息掩蔽部がありますが、ここも第三、第二と同じ造りです。

注目すべきは、ここの吸気口に単弁の桜の刻印が残されていました。

入口の井戸に残っていた複弁の刻印と同じく小菅集治監で焼かれた煉瓦です。残念なが単弁と複弁の違いは判っていません。

140棲息掩蔽部に残る単弁桜の刻印.jpg

第一棲息掩蔽部の先は、右翼観測所・陸正面砲台に続く隧道となり、緩やかなカーブを描いて上り坂になっています。わずか数十メートルとはいえ、カーブしながらの上り坂のトンネルを穿つというのは、高度な技術があったのですね。

この隧道の出口手前に第一貯水槽と濾過槽があります。

この濾過槽のアーチも隧道がカーブしていることから、斜架拱で積まれています。

さらに隧道の出口部分も斜架拱で積まれています。

134右翼観測所連絡隧道出口斜架拱角度.jpg

ここで起拱角(煉瓦の積まれたねじりの角度)と隧道の斜架角(交差する角度)がどういう関係になっているのでしょうか。

斜架角をθ、起拱角をβとすると、以前にもアップしましたが、次の関係が成り立ちます。

tanβ=2/(πtanθ)

100起拱角の図面.jpg右翼観測所方面出口の斜架角は、地図から読み取ると69度(図の59度は誤り )です。

上の式にこの角度を当てはめると、起拱角の理論値は、13.7度となります。

実際の起拱角をスマホの傾斜計で図ると18.9度となりますので、理論値よりもねじれが大きいことが判ります。


もう一か所、最初に戻って第三砲台に繋がる交通路の斜架拱について検証してみましょう。

斜架角は、地図から読み取ると、78.5度です。

上の式に当てはめると、起拱角の理論値は7.4度となります。

スマホの傾斜計は13.3度を示していますから、こちらも理論値よりもねじれが大きいことが判ります。

さてさて、残るは砲台上部の様子ですが、結構な分量になってしまったので、一度ここで区切らせていただきたいと思います。

残りもできるだけ急いでアップしますね。



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泉佐野市『親子防災教室』のお知らせと東京湾要塞の一翼を担う千代ケ崎砲台1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

2017.01.20親子防災教室blog.jpgなかなかアップできず、月一ペースを守ることもままなりませんが、ぼちぼち続けていきますので、記事が更新されていたら、覗いてみていただければ幸いです。


 

さてさて、326日に泉佐野市で小学生とその保護者を対象とした『春休み特別企画 ボーイスカウト流サバイバル術 親子で学ぶいざという時の身の守り方』をやらせていただきます。


 

ソネブロのご縁があって、hatumi30331さんのご紹介で最初に防災に関するセミナーをやらせていただいたのが20157月、早いものでもう2年近く経ってしまいました。


ここでまたご縁があって、泉佐野市さんでセミナーをやらせていただくことになりました。当初2月に大阪へとある調査研究・・・もちろん『煉瓦です』・・・のために行く予定に合わせて、前回同様大人向けのセミナーを企画しましたが、会場の都合で3月に予定変更となり、せっかくだったら春休みに合わせて親子で学ぶ防災教室にしてはどうかと提案させていただき、このような企画になりました。よろしければ親戚のお子様をリクルートしてでもご参加いただければと思います。絶対面白いと思います(^^)/



さて、先日国の史跡指定を受けた千代ケ崎砲台を見学させていただきました。



千代ケ崎砲台は、首都東京を守るために設けられた東京湾要塞の一翼を担うもので、明治時代に日本各地につくられた要塞の中では比較的後期のものとなります。

100浦賀駅.jpg東京湾要塞の建設は1876年(明治9年)に、東京湾入り口の富津岬と観音崎を結ぶ線を防御線として、まず観音崎に陸軍が砲台の建設を始めました。


ここ千代ケ崎には江戸時代に造られた平根山台場がありましたが、そこを包含して千代ケ崎砲台は建設されました。観音崎砲台の援助と浦賀湾前面海域防御、さらに久里浜に上陸した敵に対する防御が主な任務です。



1892 (明治25126日)に起工し、1895年(明治2825日)に竣工したといいますから、23か月かかっています。

周辺には江戸時代に灯台の役目を果たした燈明堂があり、建物が復元されています。

今回は浦賀駅から約3kmを、ぶらぶらと燈明台のある燈明崎まで歩きました。

101浦賀の渡し.jpg

以前、全国をまたにかけて走り回る煉瓦ハンターのエ○板さんが、煉瓦沼にはまり込むきっかけとなったのが、ここ浦賀の煉瓦造りの乾ドック(現住友重機械工業横須賀造船所浦賀艦船工場)です。残念ながらドックの周りに巡らされた煉瓦塀は取り壊されていて、新しい壁になっていました。あの刻印のあった煉瓦はどこに行ってしまったのでしょう。


102煉瓦ドック跡.jpgここだけでなく、すでに今まで歩いてきたあちこちの煉瓦が、どんどん失われていっている状況に焦燥感を感じています。

先日ある方とお話しをしていて煉瓦の話題になったときに「煉瓦のどこがおもしろいんだ?」、また「煉瓦が考古学? 考古学は土器や石器を発掘するものだろう!?」とも言われました。近代産業文化遺産としての煉瓦が考古学の対象になってきたのは、ここ数年のことと思います。まだまだ、近代日本の曙の時代である明治、そしてようやく日が昇り始めた大正、昭和のことをしっかり調べて記録し、後世に伝えていくことは重要なことだと思います。

高々100年ちょっと前のことが謎だらけ、用いられた技術も伝承されずに廃れてしまったものもあります。いろいろな資料を集め、点と点を線で結び、線と線で形を作って、失われたものの謎を解いていく面白さは、まさに考古学の醍醐味ともいえるでしょう。

一人でも多くの方に、近代産業文化遺産としての煉瓦の魅力に気づいていただき、次代まで守り伝えていきたいものです。
105燈明崎.jpg

燈明崎では、ちょっとした遺構を探して急峻な崩れやすい粘土質の山肌を藪漕ぎをして数十分歩き回りました。

そういえば昨年大津と山科の間の山を、明治時代初期の測量石標を探して小雪舞う中藪漕ぎをしてから一年たってしまったんですね。燈明崎を訪れたときは、小春日和で完全防寒対策のいで立ちでは汗をかくくらいの陽気でした。

104燈明台.jpg



 

106軍道入口.jpg燈明崎から少し浦賀駅方面に戻ると、左に上っていく分岐があります。

道幅4m程度の陸軍が切り開いた軍道で、分岐から標高差約50mをだらだらと登っていくと、ほどなくして両側が房州鋸山で切り出された石材で築かれた柵門にたどり着きます。

ここには3か所に合計6基の28cm榴弾砲座があり、地下に降りると砲側弾薬庫、棲息掩蔽部などの諸施設があります。

さらにその先には右翼観測所のほか、臼砲、加農砲、機関砲からなる陸正面防御砲台がありますが、現在は私有地のため、立ち入ることはできません。


(出典 横須賀市教育委員会発行『史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡』)

ここに設置された28cm榴弾砲は、1884年(明治17年)にイタリアの技術と鋳鉄を使って大阪砲兵工廠で試作され、のちに1891年(明治24年)には完全に国産化され、国内各地の要塞に配備されました。日露戦争における二○三高地の攻略にも18門が投入され、合計16940発が使用されたといいます。最大射程距離は7800mです。

それでは柵門から順番にご案内しましょう。

まず柵門ですが、方形に成形された石を積み上げた布積みで、江戸期の城郭の石垣とは明らかに違い、西洋の城郭を思わせる立派なものです。西洋の築城技術の影響を受けているのでしょうか。使用された石材は、東京湾を挟んだ対岸の千葉県は鋸山で採掘された房州石です。房州石は、大谷石によく似た砂質凝灰岩で、この柵門に使われた石材に残された刻印から、鋸山で採掘されたものと特定されました。

107柵門.jpg

柵門を入ると正面には土塁がありますが、この土塁は土を盛って作られています。道の突き当りには掘り抜き井戸があり、鋼鉄製の蓋がかぶせてありますが、それを少しずらして中を覗くと、深さは3mくらいでしょうか、すっかり今は枯れていて、内部の側壁は、煉瓦を小口積みで作られています。

108土塁前井戸.jpg
109土塁前井戸内部.jpg

そして蓋を開けた隅に目を転じると・・・あ、あ、あったぁ~~~(某ブログの煉瓦刻印マイスターである琴音っち風に驚いてみました(^^)

小菅集治監で焼かれた煉瓦であることを示す複弁の桜の刻印の端があるではありませんか!!


110土塁前井戸に残る複弁桜の刻印.jpg

目隠しのように作られた土塁を右側に反時計回りで回り込むと、以前立っていた海上自衛隊の通信施設の建物は取り壊されて更地になっています。周辺は高い樹木は無く草はしっかり刈りこまれていて、実に空がのびのびと気持ちの良い青空が広がっています。この好天が災いして、施設の写真は陰影が強く写真を撮るのに一苦労でした。



さてさて一気に書き上げようと思ったのですが、あまりにも長くなりそうなので、一度ここで筆をおかせていただきます。
続きは可能な限り早い時期にアップしたいと思います。

最後に砲座の写真を一枚!!

128第一砲座2.jpg

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◆ご挨拶と新年会のお知らせ ◆異次元への入口のような『ねじりまんぽ』その3 [煉瓦研究ネットワーク東京]

◆ご挨拶と新年会のお知らせ
2015年もいよいよ大晦日を迎えましたが、みなさんはどんな一年を過ごされたでしょうか?
私はこの一年を振り返ると、7月の神戸での防災・減災の講演、泉佐野市での防災・減災の講演、8月の世界ジャンボリーと防災・減災の小冊子の発刊など実り多き一年となりました。

迎える2016年が皆様方にとって素晴らしい一年となることを祈念しております。
そんな新たな年を迎えて1月14日に以下のとりおり『うなぎを食する新年会』を行いたいと思います。

 ◆日時 1月14日木曜日 19時から (集合は18時50分までにお願いします 料理の都合で遅刻はできません)
 ◆場所 銀座ときとう
   東京都 中央区 銀座 7-5-5 長谷第一ビル 1F
   交通手段 新橋駅 銀座口徒歩5分 銀座駅から320m
 ◆会費 料理1万円 + 飲み代
   ・・・飲み放題はありませんので、飲んだ量に応じて案分させていただきます。
     こういう場所なので、飲む・・・というよりお食事を楽しんでいただければと思います。

ときとう のれん2.jpg

『銀座ときとう』さんのオーナーシェフは30代の新進気鋭の方で、15歳で赤坂の老舗鰻屋に弟子入りし、20代でフランスに渡りフレンチを極めて、一昨年銀座にお店を開かれた方です。巷ではミシュラン入りも間近ではないかとささやかれており、ミシュラン入りする前に味わってしまおうという企画です。
 http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13170615/dtlmap/

ときとう うな重.jpgときとう 肝焼き.jpg 

鰻といってもフレンチを取り入れたコース料理・・・1万円コース(1万円コースが一番お安いコースです)を味わいます。

1月5日までに参加のお返事を左上のメールフォームからいただければ幸いです。


◆異次元への入口のような『ねじりまんぽ』その3
続いて前回の続きをアップさせていただきます。前回の締めで「いよいよ次回は琵琶湖疏水・・・」とぶち上げましたが、今少し『ねじりまんぽ』についてお付き合いいただければ幸いです。

前回とりあげた『門ノ前橋梁』は地図から実測した斜架角を81度、現地での実測から起拱角を10度としましたが、鉄道構造物の煉瓦研究における第一人者の小野田滋先生が書かれた『鉄道と煉瓦』によると、門ノ前橋梁の斜架角は70度と記されていました。斜架角を70度とすると、以下の公式から起拱角は13度となり、実測値の10度は、ややひねり足りない起拱角ということになります。
 tanβ=2/(πtanθ)

ここで、前回の記事のコメントで風来鶏さんから「インクラインのねじりまんぽ(の起拱角)は15度くらいか?」というご質問をいただきながらそのままになっていましたので、まずはインクラインのねじりまんぽの写真から起拱角を測ってみました。

インクライン起拱角.jpg

結果20度となりましたが、同じく小野田先生の鉄道と煉瓦では、インクラインのねじりまんぽの斜架角は、門ノ前橋梁と同じく『70度』となっていました。斜架角から導き出される起拱角は上述の門ノ前橋梁と同じ『13度』となることから、写真からの実測値の20度というのは『理論値よりひねり過ぎ』ということになりますね。

前回の記事をアップした以降、ねじりまんぽの資料等を調べていく中で、国立国会図書館に面白い蔵書を見つけました。
明治32年(1899年)発行伊藤鏗太郎訳の「斜架拱」です。

国会図書館斜架拱.jpg

斜架拱の1ページ.jpg 

訳出のもととなった本は「ジョージ・ワットソン・バック(George Watson Buck)」氏の「ヲブリイク・ブリッヂ(Oblique bridges・・・直訳すると『斜めの橋』といったところでしょうか)」を基に他の関係図書を参考に訳述したと訳者の緒言で書かれています。

ネットで原著を検索するとGoogleが電子書籍化しており、誰でもご覧になれることがわかりました。もちろん国立国会図書館にアクセスすれば、どなたでも日本語訳の『斜架拱』を閲覧することは可能です。

oblique brides2.jpg

oblique brides3.jpg

図や計算式などが多用されて、判りやすく解説されています。
原著と日本語訳を読み比べると、原著にない図なども日本語訳には使われていたりして、訳者の苦労がしのばれます。


最後に茨木駅から門ノ前橋梁までの道々にあった煉瓦造の橋梁をご紹介して、この稿を締めたいと思います。

この稿を書くにあたって再度地図を確認すると、なんと橋梁と思われるものは4つ確認できますが、3か所しか写真に収めていないので、どうも1か所は確認していなかったのか、ガーター橋などで煉瓦造りではなかったのか・・・申し訳ありません、記憶が定かではありません。

茨城駅から門ノ前橋梁に向かって1つ目、あるいは2つ目にあるのがこの狭いアーチです。前後がコンクリートで拡幅されています。

22茨木橋梁3.jpg

自転車がすれ違うのがやっとくらいの幅しかなく、路面はコンクリート製の板が横に敷かれていることから、元はカルバート(水路)として造られたものにコンクリート製の板の蓋をして通路としているのではないかと思われます。今までの経験から、最初からカルバートとして造られた煉瓦積みは目地の仕上げが粗く、人目に触れることは想定されていません。逆に通路として利用されることを目的として造られた煉瓦積みは目地がしっかり仕上げてあります。

23茨木橋梁3.jpg

ここの煉瓦積みを観察すると、もちろんイギリス積みですね。
目地はかなり荒く仕上げられていて、煉瓦が露出する部分の長手、小口も傷のついたものを多用していることから、人目に触れることは考えずに積まれたのではないかと推測されます。

3番目の橋梁も、前後をコンクリートで拡幅されていて、翼壁は石造りとなっています。

11茨木橋梁1.jpg 

煉瓦積みはもちろんイギリス積み。特段変わった特徴はありません。
コンクリートで一段高くなっているところは水路になっているようです。

次に表れてきた4番目の橋梁はコンクリート製の二連のアーチ橋

14茨木橋梁2.jpg 

・・・かと思って近づくと、なんと三連アーチでした。

15茨木橋梁2.jpg 

写真は左が茨木方面、右が高槻方面てす。
ここも左右に拡幅された部分がコンクリート造りで、中は煉瓦積みが残っています。

まずは向かって一番左側の様子です。

16茨木橋梁2左.jpg 

草が生い茂っていてよく見えませんが、水路になっているようです。

次に真ん中です。

17茨木橋梁2中.jpg

そして右側の通路部分。

18茨木橋梁2右.jpg 

何れも側壁部分は立ち上がりが石造りで、最上段の一部が石と煉瓦積みになっています。
そこから煉瓦のアーチが積まれています。

さらにここの翼壁は、下部に石を積みその上に煉瓦を積んで造られています。

21茨木橋梁2.jpg 

さて、ねじりりまんぽについて色々とお話しをしてきましたが、みなさんはこの異次元に繋がる空間を通り抜けて、どこに行きますか?

24インクライン.jpg

最後の写真はインクラインのねじりまんぽをフィッシュアイで撮影したものです。

改めて、本年はあまり訪問もできずにいる中、非常に多くの方にご訪問いただき、niceやコメントをいただいて、誠にありがとうございました。
皆様方の迎える年が素晴らしい一年となることを心よりお祈り申し上げ、2015年度のblogを締めたいと思います。 


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異次元への入口のような『ねじりまんぽ』その2 門ノ前橋梁 [煉瓦研究ネットワーク東京]

いつもご訪問いただき、ありがとうございます。また、当方からの訪問が滞っている点、ご容赦ください。
記事を拝読し、コメントを残すのは110件~20件程度となっておりますが、時間の許す限り訪問させていただきたいと存じます。
皆様方の記事を拝見させていただき見聞を広げるのは、本当に楽しいものです。
さらに皆様方からいただいたniceやコメントは、記事を書く上での貴重な活力になっていることも事実です。今しばらくはこの状況で細々と更新していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

いよいよ関西訪問最終日の712日日曜日となりました。この日は、ソネットブロガーのすーさん、路渡カッパさんと琵琶湖疏水踏破の予定を立てていたので、ねじりまんぽ探訪にあまり時間をかけることはできません。

宿泊した泉佐野から琵琶湖疏水の取水口のある大津方面に向かう途中で、訪れることのできるねじりまんぽを探さなければならないのですが、幸いなことに大阪から滋賀にかけての東海道線沿線は、ねじりまんぽが数多く存在する地域柄でした。

その中から比較的交通の便がよく、特徴のあるねじりまんぽで、やぶ漕ぎすることなく観察できるものを探した結果、茨木市にある『門ノ前橋梁』に狙いを定めました。

9門ノ前内部南から北.jpg

東海道線を使えば帰りの切符(大阪⇒東京)で途中下車することができます。朝6時にホテルを出るとJR茨木駅へと向かいました。

1泉佐野駅.jpg

駅から1.8kmと少し距離はありましたが、往復+現地での滞在時間=1時間とみて歩き出しました。
現地までタクシーでの往復も考えましたが、1.8km歩くのに約18分かかるとすれば、十分往復して現地で観察する時間は取れます。
加えて、事前の調査で門ノ前橋梁までの途中にある隧道なども煉瓦造であることが判っていたため、行きがけの駄賃に歩いて全て覗いていくことにしました。
茨木駅から門ノ前橋梁までの間に煉瓦造の隧道等は3か所確認できました。何れも三者三様、興味深い作りとなっていましたが、まずはメインの門ノ前橋梁からご紹介しましょう。

途中の煉瓦造を観察しつつ歩いたため駅から歩くこと30分近く、ようやく前方に門ノ前のねじりまんぽが見えてきました。
周辺は閑静な住宅街で、生活道路になっているのでしょう、歩行者、自転車、車の往来は頻繁です。

ここ門ノ前橋梁は、東海道線が開通した1876年(明治9年)に設置されたものですから、139歳にもなるんですね。

2門ノ前橋梁南側.jpg

近づいてみるとかなりの大きさです。天井高は約3.2mあり、南側から北側に向けて緩やかな上り傾斜になっています。
上の写真は、南側から北を望んだものです。

ここ門ノ前のねじりまんぽの特徴は、側壁とアーチ部分の境に斜めの煉瓦の角度に合わせて拉げをつけた迫受石があることです。

4門ノ前追受石.jpg

まずは外観を観察してみましょう。アーチ部分は4重に巻かれています。一般的には34重が多いといわれています。そして中に入ってみると、迫受石が見事な幾何学模様を作っています。

次の写真は南側から見たところです。

3門ノ前橋梁南側.jpg

対して次の写真は北から見たところです。
北側は南側にはない煉瓦の翼壁が付いています。
隧道に向かって左手は煉瓦の翼壁ですが、右側は後日の改修なのかコンクリート造りの壁になっています。
アーチ中央部分に生えている羊歯は、まるで正月のお飾りのようですね。

6門ノ前橋梁北側.jpg


次の写真は、拉げをつけた迫受石のアップです。しっかり計され尽くして、加工されたのでしょうね。

5門ノ前追受石.jpg

ここでこのねじれの起角(側壁とアーチ部分の煉瓦の角度)を測ってみました。
今回は事前にhatumiさんに100円ショップで分度器、定規、タコ糸、両面テープ等をご用意いただき、こんな原始的な傾斜計を作ってみました。(後日ふと思い当りiphoneApp storeで「水準器」と検索したら立派なアプリを見つけたのには、なんでこの時に思い当らなかったのかと後悔しきりでした。)

10手製傾斜計.jpg 

 11アプリ傾斜計.jpg

数か所を計測した結果、起拱角は10度となりました。これを公式に当てはめて計算すると、斜架角は約75度となります。

    tanβ=2/(π tanθ)・・・詳細は前回をご参照ください。

次に地図から測った斜架角は81度となり、同じく起拱角を計算すると約5.8度となます。
この結果この隧道のうずまきは、理論値より多少強く渦巻いているということが言えます。

12斜架角2.jpg

iphoneのアプリを使って測定していれば、もう少し正確な結果が出せたかもしれません。

また、迫受石の上に積まれた煉瓦は、小口、長手の他、長手と小口の中間の長さの七五分の煉瓦を使って、煉瓦と煉瓦の間の縦の線が上下でずれるように、さらに一段おきに揃うように考え抜かれて積まれています。

8門ノ前内部北から南.jpg
 

さてここでタイムリミット、そろそろすーさんと待ち合わせの京阪電鉄三井寺駅へと向かわなければなません。ここから茨木駅の次の駅である摂津富田駅に向かうことも考えましたが、確認できた煉瓦の隧道は1か所しかなく、今一度茨木駅に戻りつつ、来るときに観た煉瓦造の隧道を、疑問点など確認しながら歩くことにしました。

ねじりまんぽの技法は鉄道の構築物に観られるもので、建物等に使われている事例を私は知りません。もし橋梁や隧道以外の建物で、この技法をご覧になられた方がいらっしゃれば、ぜひともご教授いただければ幸いです。

7門ノ前内部南から北.jpg
 

さぁ、みなさんもこの不思議な空間を通って、千と千尋のような世界を覗いてみませんか(*^o^*) ☆!!!

いよいよこれから念願叶って琵琶湖疏水の踏破となますが、多くの方がその踏破記録を公開されているので、同じようにアップしてしまっては面白くありませんね。やはりここは『煉瓦』にスポットを当ててご報告させていただければと思います。


 


異次元への入口のような『ねじりまんぽ』その1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

さてさて4か月も前のお話しの続きです。
前回は、泉佐野市で講演をした後、熊取町煉瓦館を訪れて、子供の顔のようなランカシャーボイラーと出会ったところまでをアップしましたが、そののちhatumiさんの案内で泉佐野の素敵な街並みを探訪した後、オフ会へと突入したのでした。

話しは一気に翌日へと飛びますが、その前にねじりまんぽについて少し書いてみたいと思います。 

「まんぽ」とは小規模な隧道のことを意味しますが、「ねじりまんぽ」とは、文字通りその隧道がねじれているように見えることから付いたネーミングです。

ねじりまんぽ(斜拱渠)の実物を初めて見たのは、ちょうど一年前の大阪オフ会に続く京都オフ会の折、南禅寺のインクラインの下を通る隧道でした。
次の写真は、その時のものです。

南禅寺インクライン.jpg 

タイムトンネルのような錯覚さえ起こさせる不思議な空間の面白さに憑りつかれてしまったことは、言うまでもありません。千と千尋に登場する親子もこのようなねじれた空間を通り抜けて、異次元の世界に彷徨いこんだのでしょうか。

さて、現存するねじりまんぽ(斜拱渠)は、西日本に多く存在し、東日本には非常に少ない(碓氷峠に2か所ある他、分布の北限は新津に一か所あることが判っています。もしこれ以外に東日本でねじりまんぽの存在をご存じの方は、ぜひともご教授ください。)ことから、なかなか目にする機会がなく、半年ほどその存在を忘れかけていたときに、煉瓦研究会の例会が行われ、再びねじりまんぽと出会うこととなりました。

今年の5月のある日、東京で一番古い煉瓦建物と言われる上野の東京芸大一号館をお借りして、鉄道の煉瓦構造物研究の第一人者の小野田先生をお招きし、今までの研究成果の内容をうかがっていた中で、ねじりまんぽ(斜拱渠)の説明がありました。

一般的に線路の下に隧道(トンネル)やカルバート(水路)を穿つときは、線路と直交させることが一番強度的に強いと誰もが思われることと思います。

ところが地形であるとか、周辺の開発の事情により、必ずしも線路と隧道やカルバートを直交させることが出来ない場合に、線路に対して斜めに穿つことになります。

穿った空間を補強するために煉瓦を積む際、強度を考えて線路に対して煉瓦が直角になるように積んでいくと、自然と渦巻が出来るということをきちんと理解できたのは、7月に再び大阪の地を訪れて、再び実物を目にしたときでした。

斜めに穿った隧道やカルバートの強度を増すために、渦巻状に煉瓦が積まれたのではなく、斜めの隧道の中で線路に直交するようにアーチ部分の煉瓦を積んだ結果、渦巻が出来たと考えると判りやすいのではないでしょうか。

ここで二つの図を書いてみました。

まずは平面図・・・上方から見下ろした図をご覧ください。

ねじりまんぽ平面図.jpg

線路に対して煉瓦が直交するように積まれている様子がお分かり頂けると思います。

次に側面図をご覧ください。

ねじりまんぽ側面図.jpg

直行するように並べられた煉瓦がアーチ状に積まれて側面に降りてくると、このようになります。

ここまで来ると皆さんぴんと来ましたね。鉄道と隧道やカルバートが交差する角度によって、ねじれ方も変わってくるということです。

交差する角度(斜架角)をθ、隧道の中の渦巻の立ち上がりの角度(起拱角)をβとすると、次の公式が成り立ちます。

   tanβ=2/(π tanθ)

さあ、ここまでくると、実物の角度を測ってみたくなるのは人間の性(・・・えっ、違うって? そう思うのは僕とちょいさんくらい???)でしょうか?

5月の研究例会の時点で、7月には関西での講演が2本決まっていたので、早速実地調査の場所や日程などを調整し、次のような強行スケジュールとなりました。

 7月10日金曜日 午後 加古川で講演

            夕刻 桜ノ宮で煉瓦造の橋台他を調査

 7月11日土曜日 午前 泉佐野市で講演

            午後 泉佐野市熊取の煉瓦館訪問

            夕刻 オフ会

 7月12日日曜日 早朝 高槻~茨木の東海道本線に残る煉瓦構造物(ねじりまんぽ(斜拱渠)を含む)         

            午前~ 琵琶湖疏水踏破

とまあ、こんな流れの3日間となったのでした。

さあて、次回はいよいよねじりまんぽ(斜拱渠)の実物とご対面です。
しかもその『ねじりまんぽ』がとても凝った造りだったのは、次回のお楽しみ(^_-)/


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フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 3 [煉瓦研究ネットワーク東京]

 ◆オフ会のお知らせ
前回もお知らせしましたが、次のとおりオフ会を開催しますので、ご参加可能な方は、ぜひ記事左上のメールフォームから、ご連絡ください。

①関西からまるたろうさんが上京されるのに合わせて、みなさんで楽しくお食事ができればと思います。

 9月25日金曜日 19時00分から
 新橋駅近くの日本海庄屋
 場所は上記名前に張り付けたリンクでご確認ください。新橋駅から徒歩3分程度です。
 参加費は、飲み放題付で4000円です。 

②静岡から風来鶏さんが所要があって多摩センターの近くにお越しになるのにあわせて、去年失敗したビックリピーティーのリベンジをやりたいと思います。  
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2014-10-06

 10月4日日曜日 18時00分から 
 京王線・小田急線多摩センター駅近くのLa・Pala(以前も何回かオフ会をやったイタリアン)  
 場所は上記名前に張り付けたリンクでご確認ください。

◆フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 3

過去の記事は次のリンクからもご覧いただけます。 

⇒フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 1

⇒フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 2


まず向かったのは、旧淀川右岸(桜ノ宮駅から見て天満駅側)の橋台跡である。電車の車窓から橋台跡が残っていることは確認済みだ。

早速近くの橋を渡って対岸へと急ぎつつ川面を見ていくと、一か所だけ橋脚跡と思われる遺構が残っていた。
次の写真の中央、コンクリートの護岸の手前にあるのが、昔建設された橋脚の跡と思われる。

28淀川橋台跡.jpg

対岸に渡ると残念ながら橋台は1線分しか残っていない。

29桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道2.jpg

積み方はイギリス積みである。

くまなく探したが刻印を見つけることはできず、暗くなり始めたことも有って橋台によじ登ることは断念せざるを得ず、これが大阪鉄道が造ったものか関西鉄道が造ったものかは判断つかなかった。

しかしながら隅石の形と積み方を観察すると、先ほど見てきた大阪鉄道のフランス積みの橋台と共通点が多く、1895年(明治28年)に建造された大阪鉄道の橋台ではないだろうか。

次の写真が前回、前々回ご紹介した旧淀川左岸(桜ノ宮駅側)の大阪鉄道が建造したフランス積みの橋台である。

17桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道.jpg

煉瓦の積み方がフランス積みとイギリス積みの違いがあるものの、隅石の形、大きさ、積み方がほぼ同じもののように見受けられる。

再び橋を渡って桜ノ宮駅に戻ると、今度は東(京橋駅方面)へと向かった。

18淀川の夕景.jpg

最初に目にしたのは、桜ノ宮駅直下にある欠円アーチの隧道である。

19桜ノ宮駅下隧道.jpg

だいぶ陽も落ちてきて暗くなってくると、過去にタイムスリップしたような気にさせる雰囲気がある。
積み方は何れもイギリス積みである。

駅を通り越してさらに行くと、このような隧道があった。
次の写真は、後掲航空写真の③の位置から撮影したものである。

25桜ノ宮駅東大阪鉄道2.jpg

20桜ノ宮駅下隧道2.jpg 

これは、隧道として作られたのではなく、左右の煉瓦の構造部は橋台で、この上にガーター橋が乗っていたのではないだろうか。
天井を見ると、コンクリートの打ちっぱなしであることから、コンクリートで路面をかさ上げした時に、ガーター橋から鉄筋コンクリートの天井に作り替えられたのではないかと推測する。 

さらに進むと、次の写真をご覧いただきたい。

20桜ノ宮駅東隧道.jpg 

手前から現在の環状線、大阪鉄道の敷設した城東線跡、関西鉄道の敷設した桜ノ宮線跡が並んでいる。手前の環状線のアーチは鉄筋コンクリート造りであるが、相応の歴史があるように見受けられる。

このあたりの航空写真を見ると、次のようになっている。

桜ノ宮駅東航空写真.jpg

航空写真で黄色の点線で囲ったところが、城東線の遺構と思われる。

①の位置から観たのが、次の写真である。

22桜ノ宮駅東隧道2.jpg

城東線跡は単線、桜ノ宮線跡は複線分の橋台が残っているが、城東線の橋台上部はコンクリートで嵩上されている。また桜ノ宮線の複線分のうち城東線側がコンクリートで嵩上されている。

21桜ノ宮駅東隧道.jpg

城東線は当初単線で敷設され、のちに1919年(大正8年)に複線化されていることから、ここでは桜ノ宮線の廃線跡を利用して複線化されたものではないだろうか。

城東線跡も桜ノ宮線跡もいずれもイギリス積みである。
この反対側(桜ノ宮駅側)は、残念ながら城東線の橋台のみ残っていた。
次の写真が航空写真②の位置から撮影したもの。

22桜ノ宮駅東大阪鉄道.jpg

こちらもイギリス積みである。

もうすっかり暗くなり、この後泉佐野へと向かわなければならないので、これ以上の探索を諦め、桜ノ宮駅から泉佐野に向かうことにした。

今回の調査では、フランス積みは淀川橋梁跡の一か所でしかみられず、なんでここだけフランス積みで造られたのかは謎のままとなった。

謎は謎で、また楽しいものである。再び環状線に乗ると、車窓からすっかり暗くなった浪速の街の様子を見るでもなく、あれこれ明治の頃に思いめぐらせた。


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フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 2 [煉瓦研究ネットワーク東京]

◆オフ会のお知らせ
 
前回もお知らせしましたが、次のとおりオフ会やりますので、ご参加可能な方は、ぜひ記事左上のメールフォームから、ご連絡ください。

① 9月25日金曜日 19時00分から 場所は新橋駅近くの居酒屋さんにします。
 時間と場所は確定次第改めてご連絡いたします。
 関西からまるたろうさんが上京されるのに合わせて、みなさんで楽しくお食事ができればと思います。

② 10月4日日曜日 18時00分から 場所は多摩センターのLa・Pala(以前も何回かオフ会をやったイタリアン)でオフ会をします。
 静岡から風来鶏さんが所要があって多摩センターの近くにお越しになるのにあわせて、去年失敗したビックリピーティーのリベンジをやりたいと思います。
 ⇒http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2014-10-06

2015.08.31小冊子2.jpg◆小冊子を刊行しました。よろしかったらお買い求めください。

『災害大国日本における 防災・減災のすすめ』

 株式会社日本法令 刊行
 定価 450円+消費税
 書名 実務小冊子シリーズ15『災害大国日本における 防災・減災のすすめ』

購入は大手書店にてお取り寄せください。(Amaonでの販売はありません。)

もし入手困難な方がいらっしゃいましたら、左上のメールフォームでお申込みください。
私の方でお送りいたします。

◆大阪の煉瓦
さて、いよいよ今日の本題です。
前回のお話しは次のリンクからお読みいただけます。

 ⇒フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 1

大阪環状線桜ノ宮駅の西側にある淀川橋梁のわきに、古いフランス積みの橋台とイギリス積みの橋台が仲良く並んでいる。

1桜ノ宮 淀川橋梁.jpg 

これは旧大阪鉄道が1895年(明治28年)に敷設した城東線と、関西鉄道を経て国有化された後の1914年(大正3年)に城東線が複線化されたときに作られた橋台であることを説明した。

一般的に鉄道におけるフランス積みの構造物は、「明治30年頃を境に観られなくなる」といわれていることから、向かって左手にあるフランス積みの橋台が1895年(明治28年)に作られたであろうことは推察されるが確定はできない。

よく観察していくと、思わぬ手掛かりがあった。

今一度写真を見ていただきたい。下の写真の向かって左手にあるフランス積みの橋台は、上部を嵩上するためにコンクリートで固められている。

3桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道.jpg

次の写真の右手のイギリス積みのものは、橋台の上部の煉瓦積みがそのまま露出している部分がある。

2桜ノ宮 淀川橋梁 関西鉄道.jpg 

早速鞄を置くと、橋台の上によじ登った。

付近は駅に近く、通勤、買い物客が行きかう通路沿いでもあり、スーツを来た中年おじさんが橋台の上によじ登って、Nikon D4で写真を撮る姿は、さぞかし奇異に映ったことだろう。

意を決してよじ登ると、驚いたことにそこらじゅうが刻印だらけなのである。

確認できた刻印は8種類、そのうち出自のわかった刻印は、岸和田煉瓦と日本煉瓦である。

岸和田煉瓦は次の写真のとおり×印である。

10桜ノ宮 淀川橋梁 岸和田煉瓦刻印.jpg 

日本煉瓦の刻印は4枚の花弁のように見えるもので、花弁の中には数字と何か文字のように見えるものが書かれている。

7桜ノ宮 淀川橋梁 日本煉瓦刻印.jpg

8桜ノ宮 淀川橋梁 日本煉瓦刻印.jpg

11桜ノ宮 淀川橋梁 日本煉瓦刻印.jpg

13桜ノ宮 淀川橋梁 日本煉瓦刻印.jpg

さらに上の写真のように、副印のあるものがいくつかあるが、一番はっきりしているものは、漢数字の『壹』と読める。

次にリング状の刻印が5種類もある。

まず一重のリング。

9桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg 

次に二重のリングが離れているものと、重なっているもの。

6桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg

12桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg

さらに一重のリングにへらで2か所筋をいれたようなもの。

この筋を入れる位置によって何かの意味を表したのだろうか?

14桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg

最後にリングの中に、鉛筆の先を当てたような丸い点が2箇所あるもの

16桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg

残念ながら、これらのリングの刻印がどこの工場のものかは判らなかった。

最後に『手』のような刻印。これも出自は判らなかった。

15桜ノ宮 淀川橋梁 刻印.jpg

さて前掲の『日本煉瓦』は、渋沢栄一の興した深谷にある『上敷免』として有名な『日本煉瓦製造株式会社』ではない。

大阪府泉北郡舳松村にあった『日本煉瓦株式会社』である。

同社は、1896年(明治29年)に設立され1897年(明治30年)に操業を開始していることから、1895年(明治28年)には存在しない煉瓦となる。

従って向かって左側の環状線に隣接するフランス積みの橋台が1895年(明治28年)に作られたもので、右側のイギリス積みがそれ以降関西鉄道、あるいは国有化後国によって作られたものだとわかる。

それでは1895年(明治28年)に大阪鉄道によって敷設された城東線に係る煉瓦構造物は、すべてフランス積みだったのだろうか?

綺麗な夕焼け空となり、夜の帳が下りてくる中、重たい鞄と重たいカメラを担いで周辺を走り回ってみた。

18淀川の夕景.jpg

走り回って確認できたことは、次回につづく!


◆オフ会のお知らせ ◆防災の小冊子発刊 ◆フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 [煉瓦研究ネットワーク東京]

皆様方のところへの訪問もままならない状況で大変失礼しております。
毎日数件づつでも訪問させていただいておりますが、なかなか回りきれず、大変申し訳ありません。
今しばらくこの状況は続くものと思われますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

更新頻度が落ちると、書きたいことも山のように積りつもって、お蔵入りになってしまったネタが山のようにあります。
先日10周年を迎えられたあるブロガーさんが『ブログ記事は自分の歴史』とおっしゃってましたが、まさに自分の歩いてきた道・・・壮大な日記として私も記しているため、カテゴリーがかなりごちゃごちゃになってしまっています。
この『自分史』を充実させるためにも、もう少し更新頻度を上げられればと考えています。

さて、今日の話題は、3本ネタです。(目次をクリックすると該当箇所にジャンプします)


 1 オフ会のお知らせ

 2 防災・減災の小冊子発刊

 3 フランス積みとイギリス積みの怪


をお楽しみください。



1 オフ会のお知らせ

以前にもお知らせしましたが、9月と10月にオフ会をしたいと思います。

① 9月25日金曜日 19時00分から 場所は新橋駅近くの居酒屋さんにします。
 時間と場所は確定次第改めてご連絡いたします。
 関西からまるたろうさんが上京されるのに合わせて、みなさんで楽しくお食事ができればと思います。

② 10月4日日曜日 18時00分から 場所は多摩センターのLa・Pala(以前も何回かオフ会をやったイタリアン)でオフ会をします。
 静岡から風来鶏さんが所要があって多摩センターの近くにお越しになるのにあわせて、去年失敗したビックリピーティーのリベンジをやりたいと思います。
 ⇒http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2014-10-06

ご参加いただける方は、左上のメールフォームからご連絡ください。




2 『災害大国日本における 防災・減災のすすめ』

株式会社日本法令 刊行
定価 450円+消費税
書名 実務小冊子シリーズ15『災害大国日本における 防災・減災のすすめ』

購入は大手書店にてお取り寄せください。(Amaonでの販売はありません。)
もし入手困難な方がいらっしゃいましたら、左上のメールフォームでお申込みください。
私の方でお送りいたします。

2015.08.31小冊子2.jpg

迫りくる大地震に対して、
 ◆企業として取り組むべきこと
 ◆個人として取り組むべきこと
を開設しています。
企業においては、従業員の皆様に配布して防災教育に使えるように、ワンコインでおつりのくるような値段設定にしています。

中は大きく分けて三章立てになっています。
第一章では、過去の災害史から現在の日本は明らかに活動期にはいっていること、「なぜ災害にそなえられないのか」、「なぜ危機から逃げられないのか」などを説明しています。

第二章では、企業において、発災した時の対応の要となるじぎよう事業継続計画(BCP)の策定について解説しています。企業は実に多くのステークホルダー(直接的のみならず間接的なものも含めた利害関係人)が関わっていますが、企業としての目的は『利潤』を生むこともさることながら、『事業を継続する』ということが非常に重要なものとなります。

第三章では、個人としてどのような『そなえ』が必要か、そして万が一の際どのような行動をとったらよいのかなどを解説しています。

ぜひともお手元に置いて、時々家庭内での防災・減災に役立てていだきたいと思います。

0ne Coinで命が買えれば安いもの(*^ ^*)




3 フランス積みとイギリス積みの橋台が並ぶ怪 その1

5月にある方の講演を聞く機会があった。
その講演の中で「大阪環状線桜ノ宮駅近くに、フランス積みの橋台跡とイギリス積みの橋台跡が並んで残っているところがある。」というのである。

居てもたってもいられなくなり710日に加古川で講演が終わると、早速桜ノ宮駅へと向かった。
夕方で暗くなるまで間がないということもあり事前にGoogle ストリートビューなどでポイントは確認してある。桜ノ宮駅に着くと迷わず橋台跡にたどり着いた。

1桜ノ宮 淀川橋梁.jpg

上の写真をご覧いただくと、一番奥にあるコンクリート造のものが現在の大阪環状線の線路である。

その手前に煉瓦造の橋台跡が二つ並んでいる。

まず離れたところから俯瞰して観てみると、角石の入れ方など積み方以外のデザインは、全く同じものではないが共通点が多く、煉瓦の表面の状態などからもほぼ同時代に出来たものと思われる。

次の写真が向かって左側の橋台。フランス積みで造られている。

3桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道.jpg

次の写真が向かって右側の橋台だ。こちらはイギリス積みで造られている。

2桜ノ宮 淀川橋梁 関西鉄道.jpg

これはどうしたのだろうか、単に現場の煉瓦職人が気まぐれで外回りは「フランス積み」、内回りは「イギリス積み」で積んだとは思えない。
ちなみに大阪環状線、山手線などの環状運転している電車に「上り、下り」の概念は無く、「内回り、外回り」と表現する。

私は、鉄道に用いられる積み方は「イギリスの鉄道技術を輸入した日本は、鉄道にかかる煉瓦構築物はイギリス積みが基本で、トンネルなどのアーチ部分などに長手積みが使われる」と思っていたから、「フランス積みの鉄道遺構」という点に俄然興味が湧いてきた。

ちなみにその講演の中で、「フランス積みの鉄道遺構は全国的に散見されるが、特に関西に多い関東では信越線の碓氷峠に一部見られる。」という説明があった。

ここでこの大阪環状線の歴史をひも解いてみた。
最初にここに線路が敷設されたのは、1895年(明治28年)に当時の大阪鉄道が『城東線』として玉造⇔梅田間を開通させた。
一つは、この時に造築されたものだろう。

その後1900年(明治33年)に大阪鉄道は関西鉄道に吸収され、関西鉄道は1901年(明治34年)にここ桜ノ宮から網島までの桜ノ宮線を敷設している。

そして城東線が複線化されたのは、関西鉄道が1907年(明治40年)に国有化した後の1914年(大正3年)であるから、もう一つはその際設けられた橋台と考えられるのではないだろうか。

4桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道.jpg

大阪環状線が環状運転を開始するのは比較的新しく、戦後の高度経済成長期の1961年(昭和36年)まで待たなければならない。

5桜ノ宮 淀川橋梁 関西鉄道.jpg

それでは、向かって右手が古いのか、あるいは左手が古いのか疑問が残る。
この問題を解決する手がかりは、思いもよらず現場に残されていた。

そう、それは『刻印』である。
どのような刻印があって、なぜどちらが先にできたのか特定できたくだりは、次回に続く!!

さぁ、急いで見て回らなければ、日が暮れてしまう!!

18淀川の夕景.jpg


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山口市に残る煉瓦構築物1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

前回山口の煉瓦探訪の触りをお伝えしたが、時間が経ってしまったため、改めて書き記したい。

その日の任務が予定より早く終了すると、ホテルの部屋に戻って制服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。
疲れを洗い流すと、まだ時間は2時半。

せっかく空いた時間は有効に使おうと、持参したPCをネットに接続し、情報の収集を始めた。
するとホテルから2km弱のところに『小郡文化資料館』を発見。

まずここに行けば、何かしら煉瓦の情報が手に入れられると思い、Nikon 1を手にするとホテルの部屋を飛び出した(本日の写真は、すべてNikon1 V2での撮影です)。

JR山口線で一駅の『下郷駅』まで行くと、一路文化資料館へと向かった。
その途中で見つけた一部煉瓦造りの建物が前回も紹介した次の写真である。

7金物屋.jpg

小口と長手の列が一列ごとに積まれていて、角の処理に七五分の煉瓦を使用していることから、所謂オランダ積みである。

最初から非常に期待させる煉瓦建物の発見に心躍らせながら文化資料館に行くと、早速展示内容を観覧させていただいた。

32小郡文化資料館.jpg?

二階建ての建物はこじんまりと纏まっていて、展示スペースをぐるっと一周すると、最後に『山口市に残る鉄道施設』と題したパネルが2枚あった。

一枚は山陽本線に残るカルバート(水路トンネル)と橋台、そしてアーチの部分のみ煉瓦造りで他の部分が石造りの清水橋梁を紹介している。

もう一枚は、山口線の木戸山トンネル、篠目駅給水塔、徳佐川橋梁、第一阿武隈川橋梁を紹介していた。

パネルの説明には具体的な場所は書き記されていないが、スマホで地図を確認すると、山口線の方は離れていて時間がかかりそうだ。

山陽本線の方は場所が特定できないが、山口市内の山陽本線で『橋台』・・・川を超えるとすれば、大きな川は椹野川しかない。
しかも文化資料館から歩いていける距離。時計を見ると16時近くになっていて十分な時間もなく、迷わず椹野川に向かうことにした。

しばらく歩くと、何やら隧道が見えてきた。

13カルバート.jpg

単なるコンクリート造の隧道のようにも見えたが、水路と歩道が一緒になっていて、頭の中で警告灯が点灯し始めた。

近づいていくとビンゴ!!

12カルバート.jpg

これが文化資料館で紹介されていたカルバートである。

前後はコンクリートで補強、あるいは継ぎ足されているため、外からは判り辛いが中に入ってみると、そこは間違いなく煉瓦造りのカルバートである。

14カルバート.jpg

次の写真はコンクリートで継ぎ足された部分であるが、まるで橋台のようにRがつけられている。
コンクリートで継ぎ足される前は、カルバートの入口がどのような造りになっていたのか、興味は尽きない。

通常隧道やカルバートの胸壁と坑道のつながりは90度の角であり、Rはつけないはずである。

《4/13追記》何回も写真を見ていてふと思いついたのだが、Rの付いている部分は水路であり、水の流れを受け流すためにRがつけられたのだろうか? だとすると、Rがアーチまで続いていたのかどうかは、コンクリートを剥がしてみるか、施工図面を見なければ判らない。

21カルバート.jpg

煉瓦造の部分は複線の幅があることから、1928年(昭和3年)に山陽本線が単線から複線に拡幅された時のものと推定される。

19カルバート.jpg

上の写真をご覧いただくとお判りのとおり、非常に雑な積み方となっている。

長手積みの部分は縦のラインがランダムに積まれていて、その長さ合わせに細長い煉瓦が使われているように見受けられる。
通常の長手積みは、上下の段で半分重ねていくため、一段おきに縦のラインが揃うのが普通だ。

さらに次の写真をご覧いただくと、垂直部分はイギリス積み、アーチ部分は長手積みとなっているが、なんとイギリス積みから長手積みに変わる高さが、左右で一段ずれている。

20カルバート.jpg

カルバート(水路トンネル)として作られたため、見た目は無視して手を抜いて作られたのだろうか?
その後、そのカルバートを利用して一部歩道を増設したのかもしれない。

あるいはアーチの形が左右非対称にも見えることから、最初から水路+歩道として設計して作られたのか・・・
図面が残っていれば、ぜひとも見てみたいものである。

このカルバート、実は一度離れて次の煉瓦構築物を探しに行ったのであるが、どうしても残像に違和感が残っていて、再度帰り道に寄っている。
二度目に立ち寄った時に、左右非対称に気が付いた。
このカルバート、前後二回合わせて30分以上眺めていたであろうか。

地元の人が頻繁に通るため、生活道路の一部なのだろう。
隧道の中で煉瓦を飽きずにじっと見ている人間は、さぞかしおかしいもの、あるいは怪しいものに写ったに違いない。

今までの経験から、人が近づいてくると、知らない人でも必ず挨拶をするようにしている。
すると、京都の琵琶湖疎水探訪の時もそうであったように、挨拶から話しが弾み地元情報が手に入るのが常だからである。
何よりも挨拶することにより、「怪しい人」から「面白い人、変わった人」に変わるのである。

この日も数人の人と挨拶をし、時候の話しをしたが、残念ながら特段の情報を手に入れることはできなかった。?

文化資料館のパネルではもうあと2か所紹介しているが、この後3か所で煉瓦造りの構築物を見ることができた。
パネルで紹介されていた清水橋梁は発見できなかったので、紹介されていた以外に2か所の煉瓦構築物があったことになる。
しかしながら、この日見つけた煉瓦構築物を一回でご紹介するのは無理のようなので、この後何を見たのかは次回に譲りたい。


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煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋3 [煉瓦研究ネットワーク東京]

3新永間市街鉄道高架橋 第一区間

第一区間は、新銭座町(現在の浜松町1丁目2番、5番)から幸橋架道橋までの約950mである。

この区間の高架橋は、現在西側から京浜東北線、山手線、東海道線、新幹線の4複線(横須賀線はこの区間地下を走っている)であるが、そのうち西側の4線(京浜東北線、山手線)が開業当時の高架橋を使用している。

 

東海道線は昭和11年以降に外堀を埋め立てて建設された。


次の航空写真は、1936年(昭和11年)6月の撮影であるが、現在の東海道線の高架橋は、更地になって建設準備をしているように見受けられる。


1936年の新橋航空写真 国土変遷アーカイブB29-C2-32】

11国土変遷アーカイブB29-C2-32 1936.6.11.jpg


第一京浜南側はすでに取り壊されてしまっているので、第一区間では第一京浜と高架橋が交差する『原助橋架道橋』から『幸橋架道橋』までを考察する。


9新永間高架橋新橋付近名称入り.jpg


上の地図をご覧いただくと、架道橋(ガード)と架道橋の間は、それぞれの町名をとって名付けられていることがわかる。


どの区間でも共通する点であるが、高架橋の東側は東海道線の高架橋が隣接して建設されているため、現在では、ほとんど観察できる場所がない。

 

一方西側は高架橋沿いに道路や通路があるためよく観察できるが、逆にそれがあだとなり、高架下の活用で店舗等が作られ、表面が塗装されていたり、建築材やコンクリートで覆われていて、原型を保っているところは少ない。


さて、原助橋架道橋から歩みを進めていくと、高架橋西側は一見するとなんの装飾も施されていない小口積みの欠円アーチの連続のように見える。

 

14日蔭橋町高架橋2.jpg 


しかしよく見ると、最上部の煉瓦積み数段の様子が下部の壁面と異なりかなり荒れている。

13源助橋架道橋付近.jpg


詳細に観察していくと、次のような写真の部分を発見した。


14日蔭町橋高架橋付近.jpg

 

17煉瓦タイル.jpg


これは15mmの化粧煉瓦の端が割れているのである。


東京駅は躯体の煉瓦に厚さ15mm、場所によっては45mmの化粧煉瓦が貼られているが、これもその化粧煉瓦と同じように見える。


また、表面がとても綺麗に揃っていることからも、化粧煉瓦貼りであることが容易に推測される。


12源助橋架道橋付近.jpg


高架橋のこの辺りは、前項「2.煉瓦構築物の耐震性」でふれたとおり、大正関東地震(以下関東大震災)の折、北及び北西からの火に焼かれている。


10新永間高架橋新橋付近.jpg


従ってこの小口積みは、火に焼かれた表面を小口積みの化粧煉瓦を貼って修復したのではないかと推測される。

火の手の風下側の原助橋架道橋東側に行くと、アーチの上にイギリス積みが見えているが、新橋駅方向に目をやると、途中から小口積みに変わっている。

 

11源助橋架道橋付近.jpg


写真中央から左と右の目地の色が違うところを境に積み方が変わっているが、右がの小口積みが修復の跡ではないだろうか。

  

次の震災当時の新橋駅の写真(筆者所蔵の絵葉書の一部)の右端に写っている高架橋にご注目頂きたい。アーチとアーチの間にメダリオンが見えるのがお分かりだろうか?

 

12新橋駅付近の新永間市街線高架橋.jpg

 

次の写真(筆者所蔵絵葉書)にも、左端の高架橋をみていただくと、かすかにメダリオンが写っている。

 

13新橋駅付近の新永間市街線高架橋1.jpg


残念ながら第一区間における西側には、一つもメダリオンは残っていないが、日陰町橋高架橋の東側には、メダリオンが残っている。おそらく創建当時のものだろう。


15日蔭町橋高架橋付近.jpg

 

近づいてよく見てみると、メダリオン専用の煉瓦で形作られていることがわかる。

 

16メダリオン.jpg


震災前は、両側とも第一区間全体のアーチ間にメダリオンを用いて装飾されていたのだろう。


西側には何か所かイギリス積みが残っているが、おそらく損傷が補修するほどでもなく、そのまま残されたものと推測する。


架道橋(ガード)の橋台は、表面が綺麗に揃っていることから躯体に化粧煉瓦貼りではないかと、項番1で申し上げたが、日陰橋架道橋の橋台に欠けているところがあり、推測通り、15mmの化粧煉瓦が貼られていることが見て取れる。


15日蔭橋架道橋.jpg

 




タグ:煉瓦

煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋2 [煉瓦研究ネットワーク東京]

2.煉瓦構築物の耐震性

新永間市街線高架橋(以下高架橋)を語る上で、関東大震災を外して語ることはできない。


高架橋は1909年(明治42年)9月に東京駅手前の呉服橋仮停車場まで開通し、1914年(大正3年)12月の東京駅開業とともに、東京駅まで乗り入れている。


東京駅開業後9年目の1923年(大正12年)9月に関東大震災は発生した。

関東大震災以降煉瓦構造物は衰退し、鉄筋コンクリート造、あるいは鉄筋鉄骨コンクリート造に取って代わられていく。


関東大震災で、浅草の凌雲閣(1890年(明治23年)竣工、煉瓦造(110階が煉瓦造、1112階が木造))が8階から上が崩れ去ったのは、あまりにも有名だ。


3国立 浅草十二階.jpg


しかし見方によっては8階まで震災に耐えたともいえるだろう。


それでは他の煉瓦構造物はどうだったのだろうか。


東京駅は、地震の揺れによる被害は全くなく、迫りくる火の手も駅員による消火、延焼防止活動により防いでいる(東京帝国大学罹災者情報局調査 帝都大震火災系統地図(以下系統地図))。

2新永間高架橋2.jpg


しかし、新橋駅の駅舎は倒壊こそしなかったものの火の海に巻き込まれて全焼している。(系統地図参照)

5新橋駅.jpg (筆者所蔵 関東大震災絵葉書より)


高架橋の東側に位置する銀座には、近代化の象徴ともいえる煉瓦建物が軒を連ねていた。


1872年(明治5年)銀座大火の後、都市の不燃化を目指して官営事業として政府は煉瓦建物を分譲した。


(筆者所蔵 三代目歌川広重作「東京名所之内銀座通煉瓦造」)

煉瓦街の由来など詳細は別稿に譲るとして、築後40年前後を経て罹災した銀座煉瓦街の被害を見てみよう。


建物の47.8%が煉瓦造りであった銀座地区における地震(現在の震度基準に照らすと6弱~6強程度と推測される)による煉瓦建物の直接的な被害は、


  被害なし  8棟 21%

亀裂    20棟 51%

一部崩壊   8棟 21%

全壊    0棟  0%

不明    3棟  7%

(震災予防調査会 震災予防調査会報告第百号丙上)


となっている。


さらに建物崩壊による圧死者は無く、煉瓦造の建物は、関東大震災程度の地震に対して最低限の耐震性を備えていたといえる。

しかしながら、銀座煉瓦街は、地震後に発生した火災により壊滅した(系統地図参照)。


関東大震災は東京の被害が目立っているが、実は震源に近い神奈川県、特に横浜の被害は甚大なものがあった。


横浜といえば『横浜赤レンガ倉庫』があまりにも有名であるが、震度7の揺れに襲われた赤レンガ倉庫が次の写真である。


4横浜赤レンガ倉庫HPより.jpg

(横浜赤レンガ倉庫HPより)

中央部分が崩れているが、その左右の損傷は軽微のように見える。

この写真の手前の位置にある二号館は無事だったといわれている。


それでは高架橋はどうだったのだろうか。


前掲の新橋駅の後ろに無傷の高架橋が写っている。


次の写真は、有楽町から新橋・銀座方面を観たものであるが、こちらも見事に無傷の高架橋が写っている。


8大阪毎日新聞社有楽町駅前2.jpg

(筆者所蔵 大阪毎日新聞社刊 関東震災画報第二集より)

見事に関東大震災の揺れを耐えたのだ。

しかし、その後発生した火災で一部の区間が火を被っていることは、火災系統地図をみるとお分かりだろう。以下に系統地図の新橋駅付近を拡大してみた。

2新永間高架橋新橋付近.jpg

浜松町から新幸橋架道橋(現在の第一ホテル)前までの区間と、有楽町橋高架橋の一部が、北、あるいは北西からの火の手に襲われ、残念ながら線路を超えて南、あるいは南東に飛び火している。

4線、幅約20mを有する高架橋をもってしても防げないくらいの大火であったのだ。

以上関東大震災における煉瓦構造物の代表例をあげたが、もちろん倒壊してしまったものも少なくない。

しかし、きちんとした設計、施工で建てられた煉瓦造りの建造物は少なくとも震度6程度の揺れには耐えられるということが、お分かりだろう。


次のYoutubeの耐震実験の結果を見ても明らかだろう。



つづく




煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

20141213日、第7回の煉瓦研究会のフィールドワークが行われた。

この日は、神奈川のメンバーを迎え、総勢20名を超える研究会となった。

新橋駅に集合すると東京駅を経由して、御茶ノ水の紅梅河岸までの市街線高架橋を観察して回った。


私は残念ながら当日参加できなかったため、一週間後の20日に同じコースをたどって記しているため、13日の様子とは若干違う点があることをお許しいただきたい。 

 

1.新永間市街線高架橋の概要

1889年(明治22年)に新橋、神戸間が開通した官設鉄道と、1883年に上野、熊谷間が開通した私鉄の日本鉄道を結ぶ高架鉄道の建設が、東京市区改正計画により立案されると、1896年(明治29年)の第9回帝国議会において、中央停車場(現東京駅)の建設が決まった。

 

旧新橋駅から東京、上野と線路を伸ばすには、銀座を縦断しなければならず、用地買収等困難が予想されたため、旧新橋駅手前の現在の浜松町駅付近から西寄りにコースをとり、外堀沿いを北上する現在のコースが採られることとなった。


この市街線高架鉄道の計画をしたのが、1887年(明治20年)に来日して九州鉄道や日本鉄道の顧問を歴任したドイツ人のヘルマン・ルムシュッテルである。

 

彼はベルリン市街高架鉄道をモデルに煉瓦造のアーチ式高架鉄道を提案した。

 

ベルリン高架鉄道.jpg

 

上の写真のまるで新橋駅前のSL広場のような場所は、ベルリン市街高架鉄道の写真である。

この写真は、MMさんよりご提供いただいた。欠円式のアーチは、焼過煉瓦で縁どられ、とてもモダンな印象を受ける。

 

残念ながらこの時代の日本には、本格的な高架鉄道建設のノウハウを持たなかったことから、1898年(明治31年)にベルリン市街高架鉄道の建設に携わったドイツ人技師のフランツ・バルツァーが技術顧問として招聘された。


バルツァーは1903年(明治36年)に帰国するまで、現在の東京の鉄道網の基礎となる提案を行っている。


バルツァーの描いた東京の路線網は、なんと数十年を経て1972年(昭和45年)に総武線が東京駅地下ホームに乗り入れたことによって完成する。


バルツァーは、帰国後「東京の高架鉄道」という論文を表し、路線の設定、高架橋設計のコンセプト、さらにはデザインまで言及しているという。

是非とも読んでみたいものだ。


市街線高架橋は、1900年(明治33年)に浜松町付近で建設が始まると、1909年(明治42年)に浜松町⇔烏森(現新橋駅)が開通した。
さらに同年9月までに有楽町と東京駅の間に呉服橋仮停車場が開業して一応の完成をみる。


当時東新橋界隈を『新銭座』、大手町付近を永楽町と称したことから『新永間市街線高架橋』と呼ぶ。さらに架道橋と架道橋の間をそれぞれの地名を付けて一例をあげると『原助橋架道橋』等と呼んでいる。


高架橋のアーチは径間12m8mを基本とし、内部空間の有効利用や基礎の負担軽減のため、大部分が欠円アーチを用いているが、内山下橋高架橋に一部半円アーチが用いられている。新永間市街線高架橋の中で半円アーチが見られるのは、ここの二連のみである。


◆欠円アーチの例

DVC00061.JPG


◆半円アーチの例

半円アーチ.jpg

高架線の縦方向に通行を確保するため、中心部に2mの通路が設けられているが、私が確認した縦貫通路は、合掌式アーチが用いられている。


合掌式アーチの縦貫通路

縦貫通路内部.jpg


高架橋は、随所で道路と交差しているが、大通りとの交差では3径間ゲルバー鉄桁橋が用いられている。

中央径間を車道、左右の径間を歩道として利用されていて、地名をとり「原助橋架道橋」等と命名されている。

4常盤橋.jpg
(上の写真はちょうど良いものがなかったので、ほぼ同じ形式の常盤橋付近の架道橋である) 

何れの架道橋の橋台も煉瓦が小口積みになっている(下の写真参照)が、その表面は非常になめらかで凹凸が少ないことから、鉄筋コンクリート造あるいは石造りの表面に15mmの煉瓦タイルを貼ったものではないかと筆者は推測する。


5内幸橋架道橋.jpg


高架橋の基礎は、当時一般的だった松杭を用いている。

長さ3間、あるいは6間を基本とし、地盤の悪い場所によっては9間の松杭が用いられたようだ。


新橋駅南の第一京浜国道以南は残念ながら取り壊されて、現在では見ることはできない。

第一京浜国道の架道橋から東京駅までの煉瓦造の高架橋を『装飾』の観点からみると、次の3区間に分けることが出来る。


◆第一区間 第一京浜の架道橋から幸橋架道橋(第一京浜から第一ホテル前)

 アーチとアーチの間に煉瓦で造られたメダリオンが埋め込まれている

 ただし、大部分が後に煉瓦タイルを貼られている(関東大震災で火災により被災した修復痕と推定)ため、残っているのは数か所に限られる


◆第二区間 幸橋架道橋から第一有楽橋架道橋(第一ホテル前から晴海通り)

 アーチとアーチの間に小アーチを設け、アーチ部分を中心に焼過煉瓦を効果的に用いて装飾されている


◆第三区間 第一有楽橋架道橋から東京駅(晴海通りから東京駅)

 第一区間と同様にアーチとアーチの間にメダリオンが埋め込まれている。

 第一区間と違う点は、メダリオンのリングが石(御影石であろうか?) で造られている点である。


今回はこの区間ごとに、その特徴など交えながら煉瓦について述べていきたい。
以下つづく


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煉瓦研ネットワーク東京 大月~上野原編1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

まず今回の調査でお世話になった関係者の方々には深く感謝申し上げる。 

さて八ツ沢発電所関連施設は、1910年(明治43年)に東京電燈(現東京電力)が建設を始め、1914年(大正3年)に竣工した。
この重要文化財に指定された
桂川沿いに約14kmに及ぶ関連施設を、先日の日曜日に実地調査に出かけた。
あわせて中央線の開通当時の廃線跡も調査している。
今回はそのさわりとして何枚かの写真をアップするにとどめたい。

まず最初は桂川の水を取水して暗渠で流れてきた水が最初に地表に顔を出す第一号開渠だ。

101 1号開渠.jpg

この水が流れていく先には、木を組み合わせただけで落ちない不思議な猿橋がある。

102 猿橋.jpg

この猿橋の下流側を第一号水路橋が谷を渡っている。

103 1号水路橋.jpg

1914年(明治45年)の完成で、猿橋とのマッチングを考えて意匠を凝らしたつくりになっている。

鉄筋コンクリート製の橋としては、ごく初期の施工例に分類される。

104 1号水路橋.jpg

古い絵葉書をみると、猿橋と水路橋のすぐ脇に蒸気機関車の走るものがあるが、中央線開通当時は、この水路橋のすぐ川下を走っていた。

猿橋.jpg

その痕跡がこの橋の脇に残っている。

105 大原隧道.jpg

大原隧道である。

さらに国道20号に沿って少し上野原方面に行くと、第二号水路橋がある。

106 2号水路橋.jpg

さらに少し下ると、旧中央線の宮原隧道がある。

107 宮原隧道.jpg

ここがかつて鉄道であったことは、トンネル出口の草むらの中に眠っていた。

108 宮原隧道.jpg

さらにこの近くに第三水路橋がある。

109 2号水路橋.jpg

この水路橋がいかに巨大な施設であるかは、脇に立つ人間と比べるとお分かりいただけるだろう。

110 2号水路橋.jpg

この後大原調整池にいってこの水路からの流入口を確認して一日のフィールドワークが終了した。おって詳細は別途アップしたい。
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偽物、それとも本物!? [煉瓦研究ネットワーク東京]

今日は早々に浦賀行きを取りやめました。
実は浦賀には、世界でも4ヶ所しか残っていないレンガ積みのドライドックのうちの一つがあります。

1853年(嘉永6年)、幕府は浦賀に『浦賀造船所』を設置します。
1859年(安政6年)に日本初のドライドックが完成しますが、その後造船の中心は横須賀に移り、1876年(明治9年)に閉鎖されます。
その後1894年(明治27年)に浦賀造船所跡に浦賀船渠が設立されました。

浦賀船渠は、戦前は駆逐艦の建造で名を馳せ、戦後も多くの自衛艦を建造しました。
アメリカ海軍の空母ミッドウェーの大改修や、日本丸の建造もここで行われました。

この1859年に作られた日本初のドライドックは、日本初の煉瓦建造物でもあります。
また次の機会に見学させていただきたいと思います。

それまで写真はお預け☆!!

さて、そんなことで煉瓦の写真を掲載できないことから、『瓦』つながりで丸瓦の先端部分の止めに使う『瓦当(軒丸)』をご紹介しましょう。

1漢時代 煉瓦 獣面紋瓦当.jpg

上の写真は、電球色の照明で撮影してみました。
Dfに28mmをつけてF22まで絞り込んで撮影しています。
手持ちでの撮影のため、ISOは6400まであげてみました。 

これは『漢代、中国の出土品』といわれて購入した『獣面紋瓦当』です。
次の写真は、白色の照明で撮影しています。

2漢時代 煉瓦 獣面紋瓦当.jpg

研究のために購入したものですが、出土地や出土状況がよくわからないため、漢代のものではない、あるいはそもそも『お土産品程度のレプリカ・・・』の可能性もあります。

3漢時代 煉瓦 獣面紋瓦当.jpg

かの国のことですから、なんでもありですよね。
まぁ、ちょっと豪華なお食事を素敵な方と食べに行ったと思えばおつりがくるくらいの値段なので、興味本位で買ってしまったというのが本当かも知れません(*^^*)

そんなお食事に行く機会も無いものですから(^^;;っっ


タグ:煉瓦

煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク17 上野・荒川編10 常磐線開業当時の架道橋 [煉瓦研究ネットワーク東京]

極楽荘の前を通り過ぎると、すぐに常磐線の高架が見えてくる。

常磐線の営業免許は、東京都荒川区の日暮里駅から、宮城県岩沼市の岩沼駅までの350.4kmの東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線だ。
実際の列車の運行は、上野駅から仙台駅までを走り抜けている。

『常磐線』の名前の由来は、常陸国から磐城国を走ることから、その頭文字をとって付けられた名前だ。

常磐炭田で採炭された石炭を運ぶために計画された路線で、1896年(明治29年)に田端駅⇔土浦駅間が開業、翌々年の1898年(明治31年)には岩沼駅まで全線開業している。

その後1905年(明治38年)日暮里駅⇔三河島駅間が開通して、上野駅への乗り入れを開始した。
後から上野駅への乗入れに変更されたため、日暮里駅⇔三河島駅間では不自然な急カーブを描いている。

現在の複々線での運転形態が完成したのは、1971年(昭和46年)のことだ。
北側の緩行が開業当初のもので、南側の快速の走る線路が新しい。

極楽荘の前を通り抜けて現れてきた常磐線の下をくぐる架道橋が『第一三ノ輪架道橋』だ。

107第一三ノ輪架道橋.jpg

106第一三ノ輪架道橋.jpg

そして線路沿いに松戸方向に120m歩くと第二三ノ輪架道橋が現れる。

112第二三ノ輪架道橋.jpg


113第二三ノ輪架道橋.jpg113第二三ノ輪架道橋.jpg

ここは古い緩行の架道橋と、新しい快速の架道橋の両方の壁面4箇所に4種類の絵が描かれている。

108第二三ノ輪架道橋.jpg

109第二三ノ輪架道橋.jpg

以上2枚の写真が煉瓦造の壁面に描かれた絵で、次の2枚の写真はコンクリートの壁面に描かれている。

110第二三ノ輪架道橋.jpg

111第二三ノ輪架道橋.jpg

さらに160m下ると第三三ノ輪架道橋がある。

134第3三ノ輪架道橋.jpg

綺麗なアーチのトンネル状で、その上部には『小口もみじ蛇腹』というつみ方で装飾が施されている。

135第3三ノ輪架道橋.jpg

小口もみじ蛇腹とは、小口積みを135度の角度を付けて斜めに積むもので、『稲妻蛇腹』とも呼ばれている。

内部は鋼板で補強されているが、100年を超えた今でもしっかり建っている。

136第3三ノ輪架道橋.jpg

新しい快速線側はコンクリート製の箱型になっているので、古い緩行線とのつなぎ目にはアーチが顔を覗かせている。

さて、いよいよこのシリーズも次回から横須賀へと場所を移動する。


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煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク16 上野・荒川編9 道の途中の極楽荘 [煉瓦研究ネットワーク東京]

佐藤病院の煉瓦塀の見学を終えると、近くの小台駅から都電に乗って、終点の三ノ輪橋へと向かう。

130都電サポ.jpg

商店街を抜けていくと、ここら辺は江戸時代に下野黒羽藩の下屋敷のあった辺りだ。
第三十一代藩主大関増裕は若年寄兼海軍奉行の要職を努めた。

当時をしのばせるものは何もなく、あちこちに昭和の香りがプンプンする建物が建っている。

と、突然街中には珍しく広場が現れると、突き当りには木造モルタル造の古いアパートのような建物と、お稲荷さんが現れる。

104極楽荘.jpg

まず写真左手にお稲荷さんが敷地の内側に向かって立っているが、その脇にある看板には、次のように簡潔に記されている。

『このおいなりさんを
 こわした者は
 目がみえなくなり
 口がきけなくなる』

なんと恐ろしや!
奥の建物に目をやると・・・

105極楽荘.jpg

開いている扉から中が垣間見られるが、そこには観音様が祀られている。
木造2階建ての古いアパートのようにも見えるこの建物は簡易宿泊所で、冷暖房もない2畳半ほどの部屋は、一泊2,500円で泊まれるという。

131極楽荘.jpg

さて、この先に常磐線の高架が見えてきたが、常磐線開業当時の煉瓦造りの架道橋だ。

・・・つづく


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煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク15 上野・荒川編8 千住製絨所 [煉瓦研究ネットワーク東京]

今までの記事は、次のリンクをご参照ください。

⇒煉瓦研究ネットワーク東京

佐藤病院を後にすると都電で三ノ輪まで移動し、常磐線開通当時の第一三ノ輪架道橋と、第二三ノ輪架道橋を確認した後、千住製絨所跡へと向かった。 

千住製絨所は、1879年(明治12年)に創業を開始した軍服用絨(毛織物)の官営工場で、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一翼を担った。

119千住製絨所.jpg
(荒川区教育委員会の設置した標識に掲出された写真)

その敷地は、北は隅田川から南は千住間道まで107,000㎡にものぼる広大な敷地を有し、工業の町南千住の中核を成した。

0千住製絨所.jpg
<写真国土変遷>(国土変遷アーカイブUSA-M377-128 1947年7月24日)

官営工場は、内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後大和毛織株式会社に払い下げられたが、1961年(昭和36年)に工場は閉鎖され、80年余りの幕を閉じた。

118千住製絨所.jpg (荒川区教育委員会の設置した標識に掲出された写真)

1962年(昭和37年)には、敷地の一部が『東京スタジアム(東京球場)』として開場し、大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)のホーム球場となった。
1977年(昭和52年)に閉鎖されると、現在は荒川総合スポーツセンターとなっている。

114千住製絨所.jpg

千住製絨所を語るものとしては、正門付近の煉瓦塀が荒川区の近代化遺産の文化財として保存されているのみである。(上記航空写真の黄色い線の部分)

116千住製絨所.jpg

煉瓦塀は、綺麗なイギリス積みで積まれていて、関東大震災にも耐えて現在に至っている。

117千住製絨所.jpg

115千住製絨所.jpg


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煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク14 上野・荒川編7 佐藤病院 [煉瓦研究ネットワーク東京]

今までの記事は、次のリンクをご参照ください。

⇒煉瓦研究ネットワーク東京

あらかわ遊園を後にすると、一路徒歩で佐藤病院へと向かう。
路地を抜けると、突然都電が現れる。

127都電.jpg

佐藤病院は『登山者検診』でも有名な病院で、1909年(明治42年)7月に佐藤医院が創設され、大正年間に『佐藤病院』と改称され現在に至る。

第二次世界大戦時の東京大空襲の際病院は全焼しており、創建当時の面影を語るものは煉瓦塀しかない。

敷地の南西側と、北東に煉瓦塀が残っている。

次の写真は敷地南西側の煉瓦塀であるが、ごく普通の造りで一部○印の刻印が入っている。

103 佐藤病院.jpg

南西側の煉瓦塀に比べて北東側は、都電小台駅に近く表玄関に隣接するためか、煉瓦塀の外側は、しっかり焼き閉められて赤黒くなった煉瓦を集めて造られている。

101 佐藤病院.jpg

以前にも書いたが、高い温度で、しっかり焼き締めることにより煉瓦表面の赤色の深みは増し、赤黒くなる。

煉瓦を焼くときに、釜の中に置いた位置などにより、意図せずに部分的に焼き締められて赤黒くなることがある。
小口が焼き締められて赤黒くなった煉瓦を『鼻黒』、長手が赤黒くなった煉瓦を『横黒』、隣り合う小口と長手が焼き閉められた煉瓦を『矩黒(カネグロ)』と呼ぶ。

焼き過ぎた煉瓦を『過焼煉瓦』とも呼び、撥水性が高いことから水周りに使われることが多い。

そんな偶然の賜物を集めて造られた表面は、とてもきれいだ。

小口か長手、どちらか一面が焼き締められているため煉瓦の形はいびつで、焼き締められている面と焼き締められていない面では長さが数ミリ違う(正確な立方体ではない)ことから、均等に煉瓦を積んでいくのには、かなりの技術が必要となる。

病院内側に面する側は、ごく普通の塀にみえるが、これがとても上の写真の同じ塀の裏側であるとは思えない。

102 佐藤病院.jpg

ここの煉瓦塀には、刻印が残されている。

128 佐藤病院.jpg

129 佐藤病院.jpg

この後都電に乗って町屋へ向かい、常磐線開通当時の第一三ノ輪架道橋と第二三ノ輪架道橋を確認した後、旧千住製絨所の煉瓦塀を確認して、今回最終目的地である第三三ノ輪架道橋へと向かうのだが、順序を入れ替えて次回は旧千住製絨所の煉瓦塀からご紹介したい。


タグ:煉瓦
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煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク13 上野・荒川編6 あらかわ遊園 [煉瓦研究ネットワーク東京]

今までの記事は、次のリンクをご参照ください。

 ⇒煉瓦研究ネットワーク東京

前回、なぜここに煉瓦塀が残っているのか由来を話したが、その煉瓦塀沿いに進んでいく。

42荒川ゆうえん.jpg

煉瓦は、真ん中のコンクリートの帯の下がイギリス積み、上が長手積みであるが、ある一定の間隔で小口が現れる。

45あらかわ遊園.jpg 

裏側をのぞくと、その小口の意味が判明した。
裏側に倒れないように支えの部分が小口積みとなって現れている。

46あらからわ遊園.jpg

真ん中のコンクリートの帯の中も煉瓦でできている。

51あらかわ遊園.jpg

46あらかわ遊園.jpg

このコンクリートの帯の上と下で、積み方が違うのは、積んだ時期が違うのだろうか。

実は道路から煉瓦塀の側は一段高くなっていて、コンクリートの帯の部分がちょうど煉瓦塀の裏側の地面のレベルとほぼ重なる。

47あらかわ遊園.jpg

下のイギリス積みの部分は、土留めを兼ねているようだ。

サンプルの煉瓦の大きさをあちこちで計測して記録していく。

48あらかわ遊園.jpg

しばらく進むと、こんな場所が現れた。

49あらかわ遊園.jpg

通りがかった地元の方に伺ったところ、昔は用水路の暗渠があったそうだ。

ここまではあらかわ遊園南側の塀を見てきたが、次の写真は、東側の塀である。

50あらかわ遊園.jpg

ぐるっと回ったところで、次は佐藤病院の煉瓦塀を見学へと向かう。 


7月20日はナイアガラに乗務します。
よろしければお越しください。


煉瓦研究ネットワーク東京 番外編3 国鉄長野工場の煉瓦 [煉瓦研究ネットワーク東京]

今日はちょっと脱線して、煉瓦造りの建物が解体された際に記念品として保存されたものをご紹介したい。

1煉瓦.jpg

解体された煉瓦材に、日展審査員(後に日展参与まで務めた)瀬戸団治氏の青銅製のレリーフが付けられて、置物に加工されている。

3煉瓦.jpg

裏側に和紙に印刷された由来が貼られているので、そのまま引用したい。

2煉瓦.jpg      集 約 を 記 念 し て

 明治21年今の信越線が直江津線として軽井沢まで建設され、長野県に初めて鉄道が開業したのに伴い、明治23年2月16日内閣鉄道局長野出張所長野器械場が誕生した。これが今の国鉄長野工場の前身であって、官設としては国鉄最古のものである。

 以来、明治、大正、昭和の三代の永きに亘り、長野駅裏の古風な赤レンガ造りの工場は、県下および近郊各線区に活躍する数多くの蒸気機関車、客貨車等の修繕を担当し、地域経済発展の基盤である輸送業務に蔭の力として貢献してきた。

 昭和39年平林地籍に本工場が移り、栗田分所となったが、本工場が国鉄長期計画により完成した信越、中央両線電化等に対応し、近代車両修繕工場として整備拡充されるに伴い、昭和44年3月創立以来満79年の輝かしい歴史に終止符をうって閉鎖となり、本工場に集約された。

 長かった蒸気鉄道時代を逞しく生き、近代化の進展によりやがてその姿を消そうとする蒸気機関車とその命運をともにしたが、その伝統は受け継がれ、その偉業は甲信越交通史上に末永く語り伝えられることであろう。

 ここに郷土出身の日展審査員瀬戸団治氏の作品を添え明治を偲ぶ建家の赤レンガを頒ちて、記念としたい。

    栗  田  分  所

所     地 長野市大字栗田263番地2
面     積 4万9,70平方メートル
機械台数 485台
資 産 額 11億5,00万円
従業員数 発足時 120人  ピーク時 2,329人  閉鎖時 549人
蒸気機関車修繕両数 1万5,690両
D51形蒸気機関車新製 9両
工作機械新製 20台

閉鎖年月日 昭和44年3月23日

日本国有鉄道長野工場
長野市大字西和田43番地の1

煉瓦の大きさは、220mm × 102mm × 58mmで、小口が鼻黒になっていて非常に丁寧な仕上げの煉瓦である。
残念ながら、烙印などのしるしは確認できない。

 


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク12 上野・荒川編5 あらかわ遊園 [煉瓦研究ネットワーク東京]

都電を荒川遊園地前電停で降りると、バラの咲き乱れる遊歩道をあらかわ遊園の方へと向かう。

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思わず立ち止まってバラを鑑賞したくなるような見事さだ。

3 荒川遊園.jpg

芳しいバラの香りを楽しみながらしばし歩くと、懐かしい都電6000形、あだ名も一球さんが出迎えてくれる。

41都電.jpg

さて、あらかわ遊園は都内で唯一の区立の遊園地だが、その歴史を知る人は意外と少ない。

1922年(大正11年)5月に民営の遊園地として開園し、戦前は大変賑わったが、戦時中は閉鎖されると高射砲陣地となった。
戦後1950年(昭和25年)に区立あらかわ遊園として再出発する。

それでは1922年に開園する以前は何だったのだろうか?

実は煉瓦工場だったのである。 明治から大正にかけて、荒川区の地場産業といえば、煉瓦製造だった。

煉瓦を作るのに適した土であったことに加えて、製品を船で簡単に運べることから、隅田川沿岸には多くの煉瓦工場が造られた。

1872年(明治5年)に創業した広岡煉瓦工場は、1921年(大正10年)12月に漏電による火災で工場を焼失してしまう。
当時の経営者だった広岡幾次郎は、工場の敷地を含めた2万坪の土地を人々のための行楽地として整備し、あらかわ遊園を開園したという。

43荒川ゆうえん.jpg
国土変遷アーカイブ 日本陸軍 1936年(昭和11年)6月11日撮影 B29-C2-45

上の写真が1936年(昭和11年)のあらかわ遊園の航空写真である。

次に現代の写真と比較してみよう。

44荒川ゆうえん.jpg
国土変遷アーカイブ 2007年(平成19年)4月30日撮影 CKT20071-C11-49  

ご注目頂きたいのは、南側から東側にかけて赤い部分が、昔は遊園地内だったのが、宅地に変わっている点である。

昔あらかわ遊園の一部が宅地として売却されたため、このようになっているのであるが、赤い線の外縁部分の道路は、次のようになっている。

42荒川ゆうえん.jpg

この煉瓦の塀は、1922年のあらかわ遊園開園時に、煉瓦工場に残っていた煉瓦を使って造られたものといわれている。

写真を見ると、色々な色の煉瓦があることなどから煉瓦の品質は不均一で、製品としての煉瓦で作られたものではなく、工場に残された煉瓦を流用して作られたということが、窺える。

この煉瓦塀は、現在でも地域の人々に大切にされている。

・・・つづく


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク11 上野・荒川編4 上野から荒川への移動 [煉瓦研究ネットワーク東京]

東京藝術大学1号館、2号館を見学させていただいた後は、過去の取り壊した建物の煉瓦の集積所に案内されて、調査した。

一部は芸大だけではなく東大で取り壊された建物の煉瓦も集積されている。

一つ一つ手に取り、刻印の有無と、刻印の形を確認する作業にしばし熱中した。

27☆二.jpg

上の写真には、☆に漢数字の『二』が入っているのがお分かりだろう。

漢数字は、数種類が存在したが、この☆の刻印がどこの工場で生産されたものか、判明していない。

土にまみれたこんなものもあった。

25破片.jpg

許可をいただいて水道水で洗ってみると・・・・

26破片.jpg

鮮やかな濃い煉瓦色が浮かび上がってくる。
常滑で焼かれた煉瓦のようだ。
しっかり焼き閉められていて耐水性があり、水周りで使われた煉瓦と推定される。

非常に名残惜しかったが、次の予定地荒川区へと向かうため、谷中霊園の中を通って鶯谷へと向かった。

途中こんなものを見つけると、ついつい足が止まってしまう。

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30街並.jpg

吉田屋酒店は、1910年(明治43年)に建てられ、その後昭和に入り改築され、1987年(昭和62年)に現在地に移築復元された。

明治期の商家の造りがよくわかる貴重な建物だ。

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29旧吉田屋酒店.jpg 

天王寺跡には、往事の写真が掲出されていた。

34天王寺五重塔.jpg

以下の2枚は、現地に掲出されている写真である。

33天王寺五重塔.jpg

最初の五重塔は、1644年(寛永21年)に建立されるが、1772年(安永元年)に大火で失われる。
その後1791年(寛政3年)に再建された五重塔は関東大震災に耐え、第二次世界大戦の空襲にも焼け残ったが、1957年(昭和32年)7月2日に放火により消失した。

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現在は礎石が残っているのみである。

鶯谷からは、京成電車に乗って移動する。

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町谷で都電に乗り換えると、しばし撮り鉄三昧!!

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38都電.jpg

都電に乗って着いた先は・・・

39都電.jpg

さて、ここでどんな煉瓦の構築物と出会うのか!?

・・・つづく

 


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク10 上野・荒川編3 東京芸術大学2号館 [煉瓦研究ネットワーク東京]

前回ご紹介させて頂いた1号館が次の写真である。

3 1号館.jpg

この1号館の後ろに立つ3階建ての煉瓦の建物が2号館である。

18 2号館.jpg

2号館は1号館に遅れること6年、1886年(明治19年)に東京図書館書籍閲覧所として建てられた。
設計は、アメリカ留学から帰国した小島憲之で、3階部分の窓には丸窓が用いられていて、アメリカ風の外観となっている。

20 2号館.jpg

この建物の入り口は、『さすが芸大!!』と思わせる素敵なものだ。

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さらにこの入り口の左右には狛犬が配されている。

24 2号館狛犬.jpg

『狛犬』をみるとついつい露光間ズームで遊んでしまう悪い癖が出てしまった(^^;

実は1号館と2号館は渡り廊下で結ばれていたが、現在は屋根が取り払われている。
次の写真は、左が1号館、右が2号館だ。

23 1号館.jpg22 2号館.jpg

さてここまでの写真を見て、この二つの建物を比較してお気づきのことは無いだろうか!?

写真では難しいものと思われるが、使われている煉瓦の色合いが違うのである。
1号館の煉瓦の色は、やや白っぽく明るい色であるのに対して、2号館の煉瓦の色は、やや深みのある煉瓦色であることに気づかれたことと思う。

煉瓦の色は、一般的に次の要素により決まる。

 1.原料となる粘土の成分
 2.焼成方法
 3.焼成温度

それではこの三要素により、どのような違いが出てくるのだろうか。 

1.成分の違い
原料に鉄分の多い粘土で焼くと、赤っぽくなる。
耐火煉瓦は、耐熱性を上げるため鉄分の少ない粘土で焼かれることから、白っぽく肌色に近い色合いになる。

2.焼成方法
煉瓦を焼くときに、十分に酸素を供給しながら焼くと赤っぽくなり、酸素の供給を少なくして燻しながら焼くと、炭素が多く付着して黒っぽくなる。
屋根瓦は、炭素を多く取り入れて高い強度を出すために燻しながら焼くことから、黒くなる。

3.焼成温度
高い温度で、しっかり焼き締めることにより赤の深みは増し、赤黒くなる。
煉瓦を焼くときに、釜の中に置いた位置などにより、意図せずに部分的に焼き締められて赤黒くなることがある。
小口が焼き締められて赤黒くなった煉瓦を『鼻黒』、長手が赤黒くなった煉瓦を『横黒』、隣り合う小口と長手が焼き閉められた煉瓦を『矩黒(カネグロ)』と呼ぶ。
焼き過ぎた煉瓦を『過焼煉瓦』とも呼び、撥水性が高いことから水周りに使われることが多い。

以上の点をふまえると、色合いの異なる要因の一つとして、1号館の作られた1880年(明治13年)当時、日本の煉瓦を焼く技術が未発達で、十分な温度でしっかり焼くことが出来なかったため白っぽい煉瓦色となり、その後数年で技術が大きく進歩して、高温でしっかり焼くことが出来るようになったことから、深みのある赤色に仕上がったのではないかと考える。

今後改めてご紹介させていただくが、今回のフィールドワークで訪れた荒川区の佐藤病院に残る煉瓦塀をみると、焼成温度による色合いの違いがよく判る。
煉瓦塀の表側に横黒と、鼻黒の黒くなった部分を使って黒っぽく仕上げていることから、表と裏では風合いはまったく異なる。

101 佐藤病院.jpg102 佐藤病院.jpg

これが同じ煉瓦で作られた塀の表裏とは思えないほどの違いだ。

・・・続く


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク9 上野・荒川編2 東京芸術大学1号館 [煉瓦研究ネットワーク東京]

東京藝術大学のキャンパスの真ん中を東西に都道452号が走っている。

1918年(大正7年)にこの都道が作られると、都道に対して南北対象に煉瓦造りの校門が作られた。


大きな地図で見る

残念ながら、現在は、都道北側に面したものしか残っていない。

11校門.jpg

この校門をくぐると、すぐ左手に次の写真のような古風な守衛所が立っている。

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この守衛所の裏手にある通称『1号館 』が、都内に現存する最古の煉瓦建造物だ。

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1880年(明治13年)10月に会議室として立てられたものだ。

設計者は、当時の工部省の林忠恕であるが、林は大工出身で、大学で西洋の建築技術を学んだ建築家が世に出る以前の明治初期から中期くらいまで活躍した建築家である。

林は、横浜の居留地で洋風建物の建築工事に従事し、アメリカ人建築家などからその技術を学んだといわれている。

明治10年代まではフランス積みの建物が多いといわれている中、この建物はイギリス積みで作られている。

12 1号館.jpg

この建物は、表面をモルタルで固められていたことから、煉瓦造りと知らずに1978年(昭和53年)に取り壊される運命にあった。

取り壊しのため、表面のモルタルを一部はがしたところ煉瓦が現れたことから、モルタルを全部はがしたところで解体は中止された。

その後、2005年(平成17年)に耐震補強を行い、将来に伝えていくことのできるように改修された。

2 1号館.jpg

上の写真で、窓の上の周りに鋼材が廻らされている様子がお分かりだろう。

窓の桟は木製で、はまっているガラスは厚さが均一ではない部分があることから、この建物の竣工当時までは遡らないものの、かなりの古さがある。

14 1号館.jpg13 1号館.jpg

外側には、鋼製の枠の雨戸がついていて、とても味がある。

16 1号館.jpg

室内に入って上に目をやると、屋根の構造が良くわかる。

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明治から伝わる木材にしては、意外と新しく見えるのは、室内に暖炉や囲炉裏などが無いためだろうか。

・・・続く


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク9 上野・荒川編1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

今までアップした『煉瓦研究ネットワーク東京』に関する記事は、次のリンクからまとめてご覧になれます。

⇒煉瓦研究ネットワーク東京


5月27日日曜日、第4回目となる『煉瓦研究ネットワーク東京』のフィールドワークは、13時に上野駅公園口をスタートして、最初の目的地である東京芸術大学へと向かった。

今回は上野をスタートして、荒川区の煉瓦遺構を巡るコースである。

途中京成線、都電荒川線を使いながら、延べ移動距離は13.7kmを実に5時間かけて巡った。


好奇心旺盛な仲間が集うと、なかなか目的地にたどり着かない。

芸大に向かう途中、芸大構内から移築された東京音楽学校奏楽堂の脇を抜け、

5奏楽堂.jpg

4奏楽堂.jpg

旧上野公園駅の地上部分を眺め、

6上野公園駅.jpg

こんな素敵な路地を抜けると、

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1929年(昭和4年)竣工の東京芸術大学陳列館にたどり着いた。

8陳列館.jpg 

陳列館の外層の煉瓦は、櫛でなぞったような目が入っている珍しいものだ。

陳列館の表に回ると、1888年(明治21年)に竣工した二重橋のドイツ製の飾燈と橋欄が展示されている。
これは、1962年(昭和37年)に架け替えられたときに外されたものだ。

10二条橋.jpg

昨日アップした次の写真は、この飾燈の上部をアップで撮ったものだ。

 1二条橋.jpg

陳列館を後にして1919年(大正7年)に造られた煉瓦の門を入ると、今日案内いただく建築学科の先生にお出迎えいただいた。

11校門.jpg

・・・・続く


煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク8 八王子編8 [煉瓦研究ネットワーク東京]

八王子でのフィールドワークもいよいよ今回で最後となる。

今までアップした『煉瓦研究ネットワーク東京』に関する記事は、次のリンクからまとめてご覧になれます。

⇒煉瓦研究ネットワーク東京

前回ご紹介した八王子市立第二小学校に残るフランス積みの煉瓦塀を見学すると、甲州街道を高尾へと向かった。
当初の予定では、さらにここから数箇所回る予定であったが、今まで巡ってきたところで時間をかけすぎたため予定を変更して、甲州街道に面した長安寺に立ち寄った後、高尾駅へと向かうこととなった。

長安寺には、知る人ぞ知る遺構が残っている。

昭和4年に武蔵野中央電気鉄道が、追分⇔淺川駅(現高尾駅)に路面電車を開通させると、翌年には東八王子駅(現京王八王子駅)から高尾橋駅(京王線高尾山口駅近く)まで延長して営業運転をしていたが、営業成績は芳しくなく、わずか10年ほどで全線廃止となった。

その後第二次世界大戦が始まると、金属を供出するために軌道が外された。
現在路面電車が走っていた頃の数少ない遺構が、ここ長安寺に残っている。

71長安寺.jpg

お分かりだろうか?
参道の敷石にご注目いただきたい。

72長安寺敷石.jpg

そう、この参道の敷石は、路面電車の軌道敷きに使われていたもので、ところどころに線路があたる部分に切り欠きが残っている。

さて、高尾駅に着くと大きな天狗が出迎えてくれる。

74高尾駅.jpg

高尾駅には、煉瓦とは関係ないもののやはりこれだけは外せない。

高尾駅のホームの柱には、非常に古いレールが使われているが、第二次世界大戦当時の機銃掃射の痕が残る柱が二本保存(現在も柱として使用)されている。

75高尾駅機銃掃射痕2.jpg

74高尾駅機銃掃射痕1.jpg

さらにこちらのレールにご注目。

77高尾駅1902年製レール2.jpg

『No 60 B』と入った上には、『1902』という文字が入っている。

79高尾駅1902年製レール4.jpg

No 60 Bの下に目をやるとこんなマークが確認できる。

76高尾駅1902年製レール1.jpg

裏側には、このようなマークも記されている。

78高尾駅1902年製レール3.jpg

丸いマークは、日本初の製鉄所である官営八幡製鉄所のもの、『エ』は工部省から続く鉄道のシンボルマークであることから、同製鉄所で1902年に製造されて、当時逓信省外局の鉄道作業局に納入された物であることがわかる。

[追記]
suzuran6さんのコメントにあるとおり、機銃の弾痕と、古いレールの刻印の部分は、塗装が剥がされていて、1902年のレールにはクリヤラッカーのような透明の樹脂が塗られています。
・・・追記ここまで

高尾駅は、1901年(明治34年)に開業した歴史ある駅で、開業当時のホームが現在のホームの土台となっている。

一番北側にある1番腺、2番線ホームは、残念ながら側面を漆喰で固められているために、煉瓦作りの開業当初の煉瓦積みは見られない。

4高尾駅.jpg

3番線側も同じく漆喰で固められているが、同じホームの4番線側には煉瓦積みの側面が見られる。

1高尾駅.jpg

2高尾駅.jpg

だいぶ汚れてしまっているが、汚れを落とせば、見事な煉瓦色が現れることだろう。

この後中央線に乗って八王子駅へと移動すると、八王子駅にも開業当初のホームが顔をのぞかせている。

82八王子駅ホーム.jpg

次の写真は、以前にもご紹介した新橋駅の開業当時の煉瓦造りのホームだ。

0新橋駅.jpg

いずれもイギリス積みで、雰囲気はとてもよく似ている。

8回にわたって八王子でのフィールドワークの様子をお伝えしてきたが、いよいよ次回は東京の東・・・台東区、荒川区へと、フィールドワークの舞台を変える。


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