煉瓦研究ネットワーク東京 番外編2 新橋駅ホーム [煉瓦研究ネットワーク東京]
先週の金曜日、葛飾から帰る途中新橋駅のホームを見ると、京浜東北線北行き、山手線内回りホームの煉瓦部分の一部を削り取っていたのが見えたので、写真に収めました。
新橋駅開業当時の煉瓦積みですが、この写真から考えられることは、ホーム全体をイギリス積みの煉瓦で積み上げて作っているであろうということくらいでしょうか。
削り後の赤い色は、創業当時と変わらぬ色なんでしょうね。
さぞかし開業当時は、煉瓦の朱鮮やかな文明開化の景色だったことでしょう。
煉瓦研究ネットワーク東京 知識編1 [煉瓦研究ネットワーク東京]
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先日煉瓦の積み方をご紹介したが、正面から見たところしか見えなかったので、改めて描きなおしてみた。
まず最初がイギリス積みだ。
次のつみ方がフランス積みだ。
そして、このままでは端がそろわないので、端をそろえるために『ようかん』と呼ばれる幅が通常の半分の規格の煉瓦が造られた。
名称 | 長さ(長手) X | 幅(小口) Y | 厚さ Z | |
---|---|---|---|---|
1 | おなま | 210mm | 100mm | 60mm |
2 | はんぺん | 210mm | 100mm | 30mm |
3 | 二寸角 | 210mm | 60mm | 60mm |
4 | ようかん | 210mm | 45mm | 60mm |
5 | せんべい | 210mm | 30mm | 60mm |
6 | しちごぶ | 155mm | 100mm | 60mm |
7 | はんます | 100mm | 100mm | 60mm |
8 | にごうぶ | 45mm | 100mm | 60mm |
このほか、アメリカ積み、オランダ積み、小口積み、長手積み・・・様々な積み方が用途に応じて使い分けられている。
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク7 八王子編7 [煉瓦研究ネットワーク東京]
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京王八王子駅近くの福伝寺を後にすると、甲州街道を下り追分町近くの八王子市立第二小学校へと向かった。
八王子市立第二小学校の歴史は古く、ホームページを確認すると1873年(明治6年)に設立された八木学舎までさかのぼる。
現在地に移転してきた1891年(明治24年)には、八王子町立多賀尋常高等小学校となる。
その小学校の東側に一部煉瓦塀が残っているのだ。
次の写真は、校庭側からみたところ。
次の写真は、校庭の外側からみたところで、地権者の方の許可をいただいて撮影した。
(写真右下の煉瓦塀の手前の煉瓦を積み上げて作られた台は地権者の方が作った最近のものである。)
この積み方は、フランス積みである。
代表的な積み方の一つのフランス式を見てみよう。
一列の中に、長手と小口を交互に並べているものだ。
一方イギリス式は、一段ごとに長手積みと小口積みを繰り返していくものだ。
地権者の方に話しを伺うと、この煉瓦塀は、以前はかなりの高さがあったということであるが、「まるで監獄みたいだから低くして欲しい。」と申し入れて、この高さになったという。
いつごろ、どういう経緯で煉瓦塀が築かれたのか不明であるが、かなりの高さがあったということから、防火壁の機能を持たせて作られたのではないだろうか。
1897年(明治30年)4月22日、八王子は未曾有の大火に襲われた。
八王子市街の大半を焼く大火事となり、焼失戸数3100戸、死者42名、負傷者223名にものぼった。
通信が火災による途絶したため、伝書鳩を使って東京の中枢に被害状況を知らせたことは有名だ。
大火後現存しないものの、煉瓦造りによる防火壁が八王子市街の中心部に設けられたことからも、この小学校の煉瓦塀は、校庭に避難した人々を火災から守るために造られたものとは考えられないだろうか!?
煉瓦塀の一部に城っぽく何かをはがしたような痕があったが、地権者のかたに伺うと、ここには以前タイルが貼ってあったそうだ。
煉瓦研究ネットワーク東京 番外編1 [煉瓦研究ネットワーク東京]
1872年(明治5年)4月5日午後3時頃、和田倉門内の兵部省から出火した火災は、丸の内から銀座、築地と燃え広がり、95万㎡を焼き尽くして午後10時過ぎに鎮火した。
世に言われる「銀座大火」だ。
政府はお雇い外国人でアイルランド出身のウォールスに設計を依頼して、西洋流の不燃都市の建設を目指す。
同年8月に着工すると、翌年にはロンドンのリージェントストリートをモデルにしたといわれる銀座煉瓦街が姿を現した。
ただすべてが煉瓦造というわけではなく、外観に漆喰を塗ったものや、煉瓦造りの1階の上に木造の2階をのせたような建物もあったという。
次の木版画は、三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」の木版画だが、銀座の煉瓦街というと教科書にも登場するような有名なものだ。
右端の建物は煉瓦造りだが、残念ながら煉瓦の積み方まで正確に描かれてはいないようだ。
銀座から発見された煉瓦の遺構は、江戸東京博物館と江戸東京たてもの園にあるが、煉瓦の積み方は見た感じが美しいフランス積みを用いて造られているようだ。
左端の建物は、おそらく漆喰で固められていたのではないかと思う。
街に描かれた人々に目をやると、ちょんまげを結っているもの、中華服をきているもの、和装、洋装、色々いてみているだけで楽しい。
この木版画は、筆者所蔵のものを掲出した。
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク6 八王子編6 [煉瓦研究ネットワーク東京]
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前回は、1901年(明治34年)中央線開通当時の第二石曽根橋梁をご紹介した。
今回は、そこから程近い京王八王子駅近くの福伝寺にあるものをご紹介しよう。
境内脇の墓所に行くと、中心部にひときわ目立つ煙突のような墓標が異彩を放っている。
これは、1910年(明治43年)に八王子に設立された煉瓦製造販売、煉瓦工事土木建築請負を業とする新井合資会社創業者の墓所だ。
この墓は1916年(大正5年)に作られたもので、煉瓦のタイルを貼って造られたものである。
煉瓦造りの煙突を模したものだろうか?
裏側に回ると、下部に建立者の銘と建立年月が記されているが、その上の装飾効果をねらっての模様が、とても綺麗だ。
新井合資会社は、残念ながら1921年(大正10年)に廃業している。
他の墓所を見て回ると、次のような墓を見つけた。
こちらは、墓石の台を煉瓦を積み上げて作っているが、上の段は下の段に比べて小さくするために、羊羹(幅の狭い棒状の煉瓦)が使われている。
また、墓標の手前には、三種類のタイルを使った装飾が見られる。
タイルの周囲が新しいコンクリートで塗られているのは、このタイルが板状になっていて納骨するところの蓋になっているのだろうか?
どのような由来で煉瓦が使われているのかは、わからない。
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク5 八王子編5 中央線開通当時の橋梁 [煉瓦研究ネットワーク東京]
前回は甲武鉄道の旧八王子駅に続く遺構の跡をご紹介したが、今日は中央線開通当時の橋梁をご紹介しよう。
1901年(明治34年)に八王子⇔塩尻間が開通したときに、旧八王子駅から現在の八王子駅に線路が付け替えられたといわれているが、当時の記録や写真がほとんど残っていないため、詳細はわかっていない。
もし甲武鉄道の旧八王子駅の写真をお持ちの方がいれば、ぜひともご連絡いただきたい。
豊田から西進してきた中央線は、八王子駅手前でやや左にカーブを切るが、そのカーブを過ぎた辺りにあるのが、第二石曽根橋梁だ。
次の写真は、北側から見たところ。
次の写真は、南側から見たところだ。
この橋梁の特徴は、コーナーには隅石が使われている点だ。
この煉瓦が日野煉瓦製造所のものなのか、八王子煉瓦製造(後に大阪窯業に吸収)のものなのかは判っていない。
次の写真は、中央線の立川⇔日野間が開通した当時の橋梁(日野用水上堰架橋)であるが、コーナーに隅石は使われていない。
100年を超えてなお、今でもしっかり中央線を支えている。
さて、この近くの民家の私道にこんなものが埋められていた。
それぞれ『大阪窯業』と『OSAKA YOGYO』という刻印の入った煉瓦だ。
ディンプルが入っていることから、明治から大正時代に八王子市内の道路の舗装に使われた煉瓦だと思われる。
おそらく道路改修の折、破棄された煉瓦が再利用されているのだろう。
・・・つづく
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク4 八王子編4 甲武鉄道遺構 [煉瓦研究ネットワーク東京]
煉瓦作りの米蔵を後にして、次に向かったのは京王線北野駅の北に位置する由井第一小学校だ。
校庭の南側の隅にこのようなレンガ造りの門柱が左右残っている。
1915年(大正4年)に全国各地で大正天皇の即位を祝う御大典記念行事が執り行われた。
ここ旧由井第一尋常小学校では、長沼の煉瓦工場で焼かれた煉瓦を使って、校門が建てられる。
実は旧由井第一尋常小学校は、当初現在地から西の北野天満宮の南側辺りにあったのだが、1917年(大正6年)に現在地に移転する。
その際、このレンガ造りの校門も移築されて現在に至っている。
これが表門の門柱であるが、やや小ぶりの裏門の門柱も昔はあったようだ。
さて次に向かったのが、旧甲武鉄道の遺構だ。
旧甲武鉄道は、1889年(明治22年)8月に立川⇔八王子間が開通するが、その当時の八王子駅は現在の八王子駅の北東にあった。
現在の中央線は、1901年(明治34年)に八王子⇔塩尻間が開通するが、その際現在の八王子駅が設けられた。
中央線を東京方面からやってくると、八王子駅手前で左にカーブするが、当初の甲武鉄道の線路はカーブせずにまっすぐ進むルートだった。
次の地図の『ホテル』と書いた位置に旧八王子駅があって、その先の引いた線が切れている辺りに大型の転車台があったといわれている。
1901年に現在の八王子駅が開業した後も旧八王子駅はしばらく使われていたという説があるが、当時の記録がほとんど残っていないため、よくわかっていない。
旧八王子駅が廃止された後は、八王子工業高校がホームの上に校舎を立てて、学校として使われていた。
その後、東京都立繊維工業試験場となって現在に至っている。
この旧八王子駅にいたる遺構は現在何も残っていないが、つい最近までは、小川を通すためのレンガ造りの遺構が残っていた。
次の写真の駐車場のある辺りである。
解体されるときに撮られた写真が八王子市の資料に掲載されている。
ここで使われた煉瓦は、解体の際一部が保管されているが、その特徴から日野煉瓦と判明している。
黄色い円で記されたところが、日野煉瓦の特徴のカタカナの検印がはいっている様子だ。
・・・つづく
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク3 八王子編3 塚本家米蔵 [煉瓦研究ネットワーク東京]
前回の最後にアップした煉瓦造りの建物が、1918年(大正7年)に大阪窯業の煉瓦を使って建てられた塚本家の米蔵だ。
大阪窯業の長沼工場から、焼きすぎた煉瓦を安く譲ってもらい建てられたと伝えられている。
片倉城址に近い国道16号に面して建っている米蔵は、現在は喫茶店として利用されている。
往時の様子が、現代まで守り続けられている非常に貴重な建物だ。
上の写真のドアを開けて中に入ると、期待に違わずすばらしい空間が広がっている。
日曜日とあってほぼ満員だったため、お店の中の写真は部分的にしか撮影できていない。
この米蔵は木骨煉瓦造りで、非常に立派な木材が使われている。
室内にはJBLの目も飛び出すような高価なスピカーから軽音楽が流れ出しているが、目を引いたのは、壁のあちこちを利用して造られた棚に飾られているアンティークの模型エンジンだ。
上の写真にあったエンジンは、いずれも1940年代のものだ。
・・・つづく
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク2 八王子編2 長沼煉瓦工場 [煉瓦研究ネットワーク東京]
明治時代、煉瓦と鉄道は切ってもも切れない関係にあった。
鉄道を敷設する際に、煉瓦はなくてはならない資材だったのだ。
橋脚になり、トンネルになり、駅舎になりと煉瓦は大活躍している。
甲武鉄道は、1889年(明治22年)4月に新宿⇔立川間が、同年8月には立川⇔八王子間が開通した。
甲武鉄道の建設を当て込んで、1888年(明治21年)1月に多摩地域初の煉瓦工場である『日野煉瓦製造所』が操業を開始する。
日野煉瓦製造所で製造された煉瓦は、立川⇔八王子間で使われている。
当時の八王子駅は、現在の八王子駅の北東の東京都立繊維工業試験場跡地にあった。
(日野煉瓦製造製の煉瓦が使われていることが確認できたのは旧八王子駅手前までで、旧八王子駅の構築物に使われた煉瓦が日野煉瓦製造所のものか否かは、現在は土中に埋まっているため確認できていない。)
中央線は1901年(明治34年)に八王子⇔上野原間が開通するが、その工事を当て込んで1897年(明治30年)に八王子煉瓦製造株式会社が操業を開始する。
八王子以西の工事には、八王子煉瓦製造株式会社の製造した煉瓦が使われているというが、詳細はわかっていない。
工場は、八王子市南部を流れる湯殿川の南岸の長沼町に作られたが、『八王子市郷土資料館だより(2007.12 vol.82)』に掲載された工場の写真をみると、大きな建物に高い煙突が2本立っていて、八王子市内からも煙突が遠望できたという。(写真について、転載の許可が出ればアップしたいと思う)
次の写真の住宅街が工場のあった辺りだ。
前回ご紹介した法(宝)蔵寺から、一同はあぜ道を通って工場跡へと向かった。
上の写真は、道路の右が干上がった用水路だが、河床にはところどころに赤い煉瓦色の破片が顔を出している。
ここで、瓦礫の中から何気なく拾い上げた煉瓦の破片には、製造所の刻印と製造者の検印らしき刻印が記されていた。
どうも耐火煉瓦のようであるが、刻印ははっきりしなかったので、八王子市郷土資料館に持ち帰り、調査研究されることとなった。
ここら辺は煉瓦工場跡地であることから、かなりの煉瓦の破片が土中に散乱しているとのことであるが、あるお宅では掘り出した煉瓦を庭に敷いていた。
上の写真の中央下やや右よりの煉瓦が次の写真である。
ディンプルがついていることから、歩道の敷石として使われたものと推定されるが、大きさが変わっている。
ひょっとすると元は正方形のタイルだったのだろうか?
この破片も持ち主のご了解を頂き、持ち帰って調べることとなった。
八王子煉瓦製造株式会社は、その後1907年(明治40年)横浜の『関東煉瓦株式会社』に買収されるが、その後1912年(明治45年)2月には、大阪に本店を置く『大阪窯業株式会社』に吸収合併されてしまう。
長沼の工場では、赤煉瓦のほか、歩道煉瓦や各種の煉瓦を製造していたが、1932年(昭和7年)6月に火災で全焼し、1897年から35年続いた幕を閉じてしまった。
ここら辺を歩くと、まだまだ色々なものが出てきそうであるが、次の目的地へと向かった。
・・・つづく
煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク1 八王子編 [煉瓦研究ネットワーク東京]
2月24日日曜日は煉瓦研究ネットワークが行うフィールドワークに参加してきました。
煉瓦研究ネットワークというのは、近代産業遺産が現代のわれわれの身近な生活につながる様子を調査研究し、記録に残していこうというものです。
第三回目となるフィールドワークは、八王子がその舞台となります。
24日の東京は、お天気もよく花粉が非常に多く舞っていました。
我が家のポールンロボは、2月23日に今期初の100個を超えて106個を観測しましたが、2月24日は22時までの段階で、昨日を大きく越える486個を観測しています。
花粉の飛散による悲惨はいよいよ本格的に始まりましたね。
さて、研究会のメンバー総勢10名が13時に京王線長沼駅に集合すると、向かったのは北野街道沿いにある法蔵寺(宝蔵寺)です。
北野街道沿いには、何気に古い煉瓦で作った構築物の遺構が残っています。
上の写真はの煉瓦の遺構は、半ば土に埋もれていることから何かのアンカー・・・電線とか!?・・・に使われたものでしょうか?
法蔵寺(宝蔵寺)は、現在は無人のお寺さんですが、非常にきれいに整備が行き届いています。
さて、この上の写真を見て「んんっ!!」と思われた方は煉瓦の『オタク』認定間違い無し!!
よく見ると、土台に煉瓦が使われています。
これは、以前ご紹介した日野駅近くの飯綱大権現の土台か煉瓦で出来ていたのと似ていますね。
⇒http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2012-12-18
このお寺さんには、地元八王子市長沼にあった長沼煉瓦工場の工場長のお墓があります。
土台には、しっかり燻して焼き固められた煉瓦が使われています。
また、墓の上面は煉瓦のタイルが敷き詰められていて、非常にモダンな造りとなっています。
お寺の隅には多くの煉瓦の破片などがありますが、なぜ、何のためにあるのかは不明です。
・・・つづく