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よく聞かれること・・・ [我が愛しのWillys M38]

前々回にアップした『麻布十番と一の橋』について、かねてより連載している小説サイトに写真抜きでアップしました。・・・もっともこの小説サイトは、画像をアップできません。
 → カクヨム 東京の坂と橋77 麻布十番と一の橋
文章でどこまで情景が伝わるのか、永井荷風先生や矢田挿雲先生のようにはいきませんが、いかがでしょうか?
感想などお聞かせ頂ければ幸いです。


さて、我が家のM38に乗っていてよく聞かれるのは次の順番でしょうか。
Question ①「このナンバー何? これで公道走れるの?」
Answer はい、後ろのナンバーに封緘が付いているでしょう、ちゃんと走れます[わーい(嬉しい顔)]

桜とjeepb.jpg

Question ②4本のレバーを見て「これどうやって運転するの?」
Answer ⅰメインギヤのシフトレバー
    ⅱオーバードライブのオンオフ
    ⅲ四駆・二駆の切替
    ⅳローギヤ・ハイギヤの切替

シフトノブb.jpg

Question ③「これって大型免許とか特殊な免許必要なの?」
Answer? ? ? はい、大型免許とトレーラーを引く事があるので牽引免許が必要です
    ・・・なんちゃって、信じてしまったあなた、普通免許だけで乗れます[ウッシッシ]

免許証b.jpg

僕の免許証の種類の欄です。
皆さん意外に思いませんか? ・・・二輪が無い!!!!

もっとも、一番よく聞かれるのは、「アナタは何者?」


タグ:Jeep m38 ジープ MB
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ジープへの憧れ [我が愛しのWillys M38]

私のジープへのあこがれは、1960年代を代表するテレビドラマ『コンバット!』のブラウン管の中に登場するジープ・・・Willys MB に始まります。
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 戦場を縦横無尽に駆け巡るジープのタフさと直線で構成された無骨なデザインは、ヒーローに憧れる子供ごころを引き付けて余りあるものでした。
 ジープの系譜を受け継ぐラングラーで走っていても子供たちは振り向きませんが、M38MBで街を走ると「あっ、ジープだ!」と子供たちは振り向くことから、年代を越えて子供たちに愛されているものと感じます。
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 18歳になってすぐに免許を取ると、ジープは貧乏学生に手が届くようなものではなく、中古のランサーを購入しました。砂漠を疾走する姿にあこがれての選択でした。
 いつしかジープに乗りたいと思っていたものの、若さゆえでしょうか、MR2やスープラ、果てはトランザムまで乗りました。しかしアウトドア中心のライフスタイルには合わず、沖縄に暮らしていた時にランドクルーザー80のスノーバージョンを購入したのが、四駆に乗り始めるきっかけとなりました。沖縄ナンバーの80を東京に持ってきてしばらく乗っていましたが、排気ガス規制が厳しくなってきたところで、M151(通称ケネディージープ)と出会って雷に打たれたようなショックを感じたことが、昨日のように思い出されます。子供の頃観た『コンバット!』にでてきたジープのことを思い出し、すぐに購入を決めました。このブログを始めて以来使っているアイコンが、M151のシルエット画像です。
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 以降M151は私の良き相棒となりましたが、フロントグリルは縦のスリットではなく横のスリット、フレームはラダーフレームではなくモノコックボディー、足回りはリーフリジッドではなく四輪独立懸架と近代化されたジープに、いつしか子供の頃にコンバット!で観ていたジープへの憧れは強くなっていきました。
 そこで1953年に三菱でノックダウン生産が始まった頃のナロージープJ3(ガソリンエンジン、左ハンドル)を、いつしか探すようになっていました。MBはもとより希少車であるM38は、とても手が出るものではないと考えて、比較的入手しやすいJ3を探していたのですが、不思議なご縁を頂きこの M38を我が家に迎えることができたのが22年前のことです。
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 ジープの魅力を改めて考えてみると、不思議と都会のオフィス街にもマッチするその無骨なデザイン、どんなオフロードでも乗り越えていくタフさ、第二次世界大戦に登場して以降の活躍などから、冒険心をくすぐられるところだと思います。特にM38は、MBのあらゆる点を改善してできたところから、オフロードはもとより日常使いにも不便はなく、近くに買い物にいくのもM38で出かけるくらいです。
 また、街ですれ違うと見知らぬ同士挨拶を交わし、ジープのコミュニティでは多くの方と貴重なご縁を頂いたことは、ジープに乗らなければ分からなかった魅力でしょう。
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 20年以上乗り続けていて未だ飽きないのは、他の車では味わうことのできない「運転する喜びと走る楽しさ」をとことん感じさせてくれるからだと思います。これからも末永くお付き合いしていきたいと思います。


タグ:m38 Jeep MB ジープ
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近況 [日常の中の出来事]

3年3か月ぶりのアップに、多くの方からniceやコメントを頂きありがとうございました。
現在は、instaglamFacebookで毎日更新しています。


近況ですが・・・
昨年永年務めたシンクタンクを退職し、独立しました。


とりあえず生きていくためには、色々なお仕事を引き受けているので、実際自分の本業が何なのかますます不明となってきました。
時には作業服にヘルメット姿で発掘現場に出没したり、某地方公共団体の防災訓練をプロデュースしたり、サバイバル訓練をやったり、さらには名古屋ノスタルジックカー大行列を主催したりしています。

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この日の調査は、地元新聞の社会面に調査の様子が紹介されました。
私たちの活動が功を奏して、一部保存が決まりました。
記事の写真・・・私も映っています!

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まぁ「職業は?」と聞かれれば、「海兵隊のサバイバル訓練の教官・・・」ではなく、「自由業」とでも答えるでしょう。


さてさて、M38君は元気です。

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我が家に迎えて22年になりますが、今が一番調子が良く絶好調で走っています。
また、3月1日発売のカーグラフィック4月号にM38が登場します。


実はM38だけでなく、1942年製のWillys MBと1948年製のヒルマンミンクスマークⅡがいます。ところがガレージは2台分。
その他にもレンジローバースポーツがいるため、レンジローバーとヒルマンミンクスは屋外保管になっています。

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そこで、MBは手放そうと思います。
もしご興味のある方は、ご連絡ください。

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麻布十番と一の橋 [東京の坂と橋]

「麻布十番」という地名からは、江戸から続く伝統と現代的な洗練された文化の街、あるいはおしゃれな街という印象を多くの方がもたれると思います。

街並み.jpg

また港区には67か国の大使館がありますが、麻布十番には、

オーストラリア大使館
  シンガポール共和国大使館
  オーストリア共和国大使館
  パラオ共和国大使館
  在東京パナマ共和国総領事館
  大韓民国大使館
  アフガニスタン・イスラム共和国大使館

などがあり、多文化が共存するインターナショナルな街でもあります。

麻布十番は、江戸中期までは畑作中心の農村地帯でしたが、運河が整備されて商工業が発展すると、江戸末期の安政6年(1859年)にはアメリカ公使館などがおかれ、今の「インターナショナルな街」の先鞭をつけました。

明治に入り鉄道馬車が整備されると工業化が進み、関東大震災以降は東京屈指の盛り場としての地位を確立しました。その後戦後高度成長期まで、都電が4路線乗り入れる(図2参照)など、多くの人が訪れる商業地として賑わったといいます。

ところが1960年代半ばに都電が廃止されると、最寄り駅の六本木駅からは高低差(六本木駅標高30m→麻布十番駅標高5m)が障害となり陸の孤島と化して、人足は遠のいてしまいました。さらに、周辺地域の発展に伴い、麻布十番の地位が相対的に低下したことも影響しているといえるでしょう。例えば、1984年には鳥居坂下にディスコ「マハラジャ」が開店するなど、バブル期には他地区への人気が高まりました。

一方、2000年に東京メトロ南北線と都営大江戸線が開通して麻布十番駅が誕生すると、地元商店街を中心とした納涼イベントや、各国大使館が出店する国際バザールなどのイベントによる巻き返しが功を奏して、おしゃれなショップやレストランが多く集まるようになり、若者や外国人にも人気のある地域へと変貌していきます。商店街には100年以上の歴史を持つ老舗店も多く、伝統的な日本文化と新しい文化が融合した地域へと発展しました。

 次の地図は、1849年(嘉永2年)の切絵図(出展:東京都立中央図書館所蔵)です。1849年といえば、明治維新の20年前、ベリーの浦賀来航が1853年(嘉永6年)なので、日本が激動の明治へ向かう前夜というところでしょうか。

1 江戸切絵図 東京都立中央図書館蔵
切絵図2.jpg

大名の下屋敷や、旗本・御家人などの屋敷とともに、六本木に向かう谷筋は町人が住む街だったようで、江戸中期までの農村の趣きはすっかりなくなっています。

切絵図の左手上部から下に下り中央下部で直角に下に曲がる川が古川です。天現寺橋までは渋谷川(現在では渋谷駅の地下を流れる川で、童謡『春の小川』で謳われた川として有名)ですが、その下流は古川と名を変えます。この古川が、切絵図の下部から直角に左に曲がるところが一ノ橋ですが、ここが現在の麻布十番交差点付近です。

次の写真は、現在の古川です。一の橋の上から上流を見たところですが、上空を首都高速が走っています。この一の橋の上が環状線から首都高速2号線が分岐する一の橋ジャンクションとなります。
古川.jpg

現在の一の橋は、レトロな雰囲気の橋ですが、昭和58年に竣工した橋です。
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一の橋2.jpg

一の橋のたもとには、現在の橋が竣工した時の石碑があります。その石碑には、次の通り刻まれていました。

一之橋の由来
一橋は元禄12年(1699年)8月
始めて架けられ、命名されたと言う
前年の白金御殿(南麻布にあった将軍
綱吉の別荘)造営にともなう古川改修
によりニ之橋等とともにかけたものと
されているが、改修いぜんの寛文13年
(1673年)の地図に、その前身とも
思われる橋が、近い位置に架けられて
いたのを見ることが出来る。一之橋は
十番商店街を控え、古くからの交通の
要所であって、今日も都心南部での
有名な橋の一つとなっている

昭和58年1月港区
石碑.jpg

なお、この古川の地下30~40mには、治水対策の一環として一の橋から恵比寿橋上流までの3.3kmに、直径7.5mのトンネルを掘った地下調整池が造られています。

さてさて、次々と疑問がわいてきて、止まらなくなってしまいました。
1 麻布十番の地名の由来は何なのか?
2 麻布十番があれば、一番、二番・・・は無いのか?
3 なぜ駅が新設されたときに、「一の橋」や「麻布」ではなく「麻布十番」としたのか?

1 「麻布」という地名の由来
 江戸時代この地域では、麻を盛んに栽培していたことから、麻生が転じて麻布となったようです。あるいは、その麻で織物を作っていたことから、麻布となったとも考えられます。

 2 十番の他に一番、二番・・・はあるのか 
 将軍徳川吉宗の白金宮を建設するために、人足たちがいくつかの組に組織され、周辺に住んだそうです。
 その組に番号が振られ、たまたま麻布に住んだ組が十番目の組だったから、麻布十番は「麻布に住む十番目」という意味です。何故か他の組は地名に名を遺すことなく、現在では「十番」しか存在しません。
 なお1962年の地区番号改編で麻布十番という地名が復活し、現在では麻布十番1丁目から麻布十番4丁目まであります。

3 麻布十番という駅名の由来
 昔の都電路線図を確認しましたが、どこにも「麻布」の名を冠する電停(電車が止まる停留所)はありませんでした。
 図2都電路線図は、往時の都電路線図(出展:東京都交通局 1962年(昭和37年)10月現在)です。
 左手中央端に品川駅がありますが、そこから右に目を向けると、東京タワーが描かれています。そしてその左手上に一ノ橋がありますね。ここが現在の麻布十番です。
 路線は、
 ①   4系統  五反田駅前 ⇔ 銀座二丁目
 ②   5系統  目黒駅前  ⇔ 永代橋
 ③   8系統  中目黒駅前 ⇔ 築地
 ④   34系統 渋谷駅前  ⇔ 金杉橋
 南北線・大江戸線が開通するとき、駅名について地元民と話し合いがもたれたそうです。東京都交通局などからは、セレブなイメージのある「麻布」という案が示されましたが、駅の住所は麻布十番1丁目にあることから地元の方々は「麻布十番」を押し、『麻布十番駅』と決まったようです。
地下鉄2.jpg

 電停の名前だった「一ノ橋」という案は、どうだったのでしょうか。

2 都電路線図 東京都交通局
都電路線図2.jpg

 ちなみに『一の橋(一ノ橋)』という名前は、港区が運営する地域コミュニティバスの停留所に『麻布十番駅前[一の橋]』となっています。おそらく都電が廃止されると代替バスが走りますが、麻布十番駅ができた時にバス停『一の橋』は『麻布十番駅前』に変更されたのではないかと推測しますが、未確認です。そのほか、首都高速の『一の橋ジャンクション』、麻布警察署『一の橋交番』などにその名を残しています。
バス停3.jpg
 残念ながら都バスのバス停には、「麻布十番駅前」としか表記されていません。
バス停.jpg 

まだまだ疑問が尽きることはなく、・・・・次から次へと広がります。
これをまとめていて、さらなる疑問が次々にわいてきました。
 ◆一番~九番までの組はどこに住んだのか、なぜ地名として残らなかったのか?
 ◆なぜ渋谷川が渋谷区から港区に入る天現寺で古川と名を変えるのか、河川の名称が途中で変わるのは地理的な要因が多いようですが、ここは歴史的な要因があるのか?

・・・時間がいくらあっても足りません。


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一式双発高等練習機 キ54 [ミリタリーで不思議なもの]

以前このソネブロで活躍されていたノスタルジックカーショーさんが、現在はYouToubeで番組配信をされています。

今晩20時から、以下のリンクで私が提供した一式双発高等練習機見学会の第2回の模様が放送されますので、ぜひご覧ください。


20時以降であれば、いつでもご覧になれます。

 

第1回目の放送は、次のリンクでいつでもご覧になれます。


 

この機体は、1943年9月27日に秋田県能代飛行場を離陸後、青森県八戸市に向かう途中エンジントラブルで十和田湖に墜落した機体です。乗員4名のうち、救助されたのは1名のみという事故でした。

その後2012年に引き上げられて、青森県立三沢航空科学館に展示されていましたが、このたびこの飛行機を製造した立川飛行機(現立飛ホールディングス)に里帰りしたのを機に一般公開されたものです。

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公開された場所は立川にある1936年(昭和11年)に建てられた木骨造りの非常に貴重な倉庫ですが、残念ながら消防法等の制約から常時展示は叶わず、3日間のみの限定公開となりました。

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一式双発高等練習機は、1941年(昭和16年)に制式採用された陸軍の練習機です。

非常に扱いやすく優秀な機体だったので、用途に応じて数種類の機体が造られました。総生産機数は、1342機ですが、各型の内訳は分かりませんでした。
キ54甲・・・操縦・航法訓練
キ54乙・・・通信・爆撃・射撃訓練
キ54丙・・・輸送機(乗客8名)
キ54丁・・・哨戒機(磁気探知機搭載)
Y39・・・・民間型輸送機
連絡機としても用いられ、満州国軍では、要人輸送機として利用されました。
戦後も、外地に残った機体が、国共内戦やインドシナ戦争で運用され、1952年くらいまで飛んでいたようです。
実機は北京航空航天大学と、オーストラリア戦争記念館にあるようです。
発動機は、日立ハ13甲 空冷9気筒エンジン(社内では『天風21型エンジン』と呼ばれていたようです)で515HP。写真に写っている綺麗な方のエンジンは、日野自動車で復元され、東京都八王子市にある日野オートプラザで展示されていましたが、今回の機体の里帰りに合わせて、立飛に戻って来ました。
エンジンを設計製造したのは、東京瓦斯電気工業で、昭和14年に航空機用エンジンの製造部門を日立製作所に譲渡し、『日立航空機』として東京瓦斯電気から引き継いだ大森工場でこのエンジンを製造していました。
日立航空機は、戦後合併や社名変更を繰り返して、現在流れを汲む企業は『小松ゼノア』です。私のラジコン戦車にも小松ゼノアのエンジンが積まれています。




大元の東京瓦斯電気工業は、軍需品・・・薬莢、信管の他、東京砲兵工廠からの依頼で南部自動拳銃を作っていましたが、メインはトラックの開発製造でした。
その流れを汲むのがいすゞ自動車ですが、戦前国策により、特殊車両の製造部門が分離独立して日野重工業が設立され、戦車などの軍需車両を製造していました。
これが戦後民需に転換して日野産業となり、日野ヂーゼル工業を経て1959年に日野自動車と改称しています。1950年代には母体のいすゞと競合するトラックメーカーに成長した事は、素晴らしい事ですね。
日野ルノーやコンテッサなどの乗用車を手掛けていた事は、旧車乗りにとっては懐かしい事になってしまいました。
トヨタのFJクルーザーは、日野自動車製というのは、日野市民の私にとって嬉しい事実です。

エンジンの復元は、日野自動車の実験部門と生産技術部門が担当しました。状態は非常に良く、分解すると中からオイルが出てきたとか。
土に埋没していた部分の腐食が酷く、水中に露出していた部分の方が状態が良かったようです。

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