近況 [日常の中の出来事]
昨年永年務めたシンクタンクを退職し、独立しました。
時には作業服にヘルメット姿で発掘現場に出没したり、某地方公共団体の防災訓練をプロデュースしたり、サバイバル訓練をやったり、さらには名古屋ノスタルジックカー大行列を主催したりしています。
私たちの活動が功を奏して、一部保存が決まりました。
記事の写真・・・私も映っています!
また、3月1日発売のカーグラフィック4月号にM38が登場します。
その他にもレンジローバースポーツがいるため、レンジローバーとヒルマンミンクスは屋外保管になっています。
もしご興味のある方は、ご連絡ください。
麻布十番と一の橋 [東京の坂と橋]
「麻布十番」という地名からは、江戸から続く伝統と現代的な洗練された文化の街、あるいはおしゃれな街という印象を多くの方がもたれると思います。
また港区には67か国の大使館がありますが、麻布十番には、
オーストラリア大使館
シンガポール共和国大使館
オーストリア共和国大使館
パラオ共和国大使館
在東京パナマ共和国総領事館
大韓民国大使館
アフガニスタン・イスラム共和国大使館
などがあり、多文化が共存するインターナショナルな街でもあります。
麻布十番は、江戸中期までは畑作中心の農村地帯でしたが、運河が整備されて商工業が発展すると、江戸末期の安政6年(1859年)にはアメリカ公使館などがおかれ、今の「インターナショナルな街」の先鞭をつけました。
明治に入り鉄道馬車が整備されると工業化が進み、関東大震災以降は東京屈指の盛り場としての地位を確立しました。その後戦後高度成長期まで、都電が4路線乗り入れる(図2参照)など、多くの人が訪れる商業地として賑わったといいます。
ところが1960年代半ばに都電が廃止されると、最寄り駅の六本木駅からは高低差(六本木駅標高30m→麻布十番駅標高5m)が障害となり陸の孤島と化して、人足は遠のいてしまいました。さらに、周辺地域の発展に伴い、麻布十番の地位が相対的に低下したことも影響しているといえるでしょう。例えば、1984年には鳥居坂下にディスコ「マハラジャ」が開店するなど、バブル期には他地区への人気が高まりました。
一方、2000年に東京メトロ南北線と都営大江戸線が開通して麻布十番駅が誕生すると、地元商店街を中心とした納涼イベントや、各国大使館が出店する国際バザールなどのイベントによる巻き返しが功を奏して、おしゃれなショップやレストランが多く集まるようになり、若者や外国人にも人気のある地域へと変貌していきます。商店街には100年以上の歴史を持つ老舗店も多く、伝統的な日本文化と新しい文化が融合した地域へと発展しました。
次の地図は、1849年(嘉永2年)の切絵図(出展:東京都立中央図書館所蔵)です。1849年といえば、明治維新の20年前、ベリーの浦賀来航が1853年(嘉永6年)なので、日本が激動の明治へ向かう前夜というところでしょうか。
大名の下屋敷や、旗本・御家人などの屋敷とともに、六本木に向かう谷筋は町人が住む街だったようで、江戸中期までの農村の趣きはすっかりなくなっています。
切絵図の左手上部から下に下り中央下部で直角に下に曲がる川が古川です。天現寺橋までは渋谷川(現在では渋谷駅の地下を流れる川で、童謡『春の小川』で謳われた川として有名)ですが、その下流は古川と名を変えます。この古川が、切絵図の下部から直角に左に曲がるところが一ノ橋ですが、ここが現在の麻布十番交差点付近です。
次の写真は、現在の古川です。一の橋の上から上流を見たところですが、上空を首都高速が走っています。この一の橋の上が環状線から首都高速2号線が分岐する一の橋ジャンクションとなります。
現在の一の橋は、レトロな雰囲気の橋ですが、昭和58年に竣工した橋です。
一の橋のたもとには、現在の橋が竣工した時の石碑があります。その石碑には、次の通り刻まれていました。
一之橋の由来
一橋は元禄12年(1699年)8月
始めて架けられ、命名されたと言う
前年の白金御殿(南麻布にあった将軍
綱吉の別荘)造営にともなう古川改修
によりニ之橋等とともにかけたものと
されているが、改修いぜんの寛文13年
(1673年)の地図に、その前身とも
思われる橋が、近い位置に架けられて
いたのを見ることが出来る。一之橋は
十番商店街を控え、古くからの交通の
要所であって、今日も都心南部での
有名な橋の一つとなっている
昭和58年1月港区
なお、この古川の地下30~40mには、治水対策の一環として一の橋から恵比寿橋上流までの3.3kmに、直径7.5mのトンネルを掘った地下調整池が造られています。
さてさて、次々と疑問がわいてきて、止まらなくなってしまいました。
1 麻布十番の地名の由来は何なのか?
2 麻布十番があれば、一番、二番・・・は無いのか?
3 なぜ駅が新設されたときに、「一の橋」や「麻布」ではなく「麻布十番」としたのか?
1 「麻布」という地名の由来
江戸時代この地域では、麻を盛んに栽培していたことから、麻生が転じて麻布となったようです。あるいは、その麻で織物を作っていたことから、麻布となったとも考えられます。
2 十番の他に一番、二番・・・はあるのか
将軍徳川吉宗の白金宮を建設するために、人足たちがいくつかの組に組織され、周辺に住んだそうです。
その組に番号が振られ、たまたま麻布に住んだ組が十番目の組だったから、麻布十番は「麻布に住む十番目」という意味です。何故か他の組は地名に名を遺すことなく、現在では「十番」しか存在しません。
なお1962年の地区番号改編で麻布十番という地名が復活し、現在では麻布十番1丁目から麻布十番4丁目まであります。
3 麻布十番という駅名の由来
昔の都電路線図を確認しましたが、どこにも「麻布」の名を冠する電停(電車が止まる停留所)はありませんでした。
図2都電路線図は、往時の都電路線図(出展:東京都交通局 1962年(昭和37年)10月現在)です。
左手中央端に品川駅がありますが、そこから右に目を向けると、東京タワーが描かれています。そしてその左手上に一ノ橋がありますね。ここが現在の麻布十番です。
路線は、
① 4系統 五反田駅前 ⇔ 銀座二丁目
② 5系統 目黒駅前 ⇔ 永代橋
③ 8系統 中目黒駅前 ⇔ 築地
④ 34系統 渋谷駅前 ⇔ 金杉橋
南北線・大江戸線が開通するとき、駅名について地元民と話し合いがもたれたそうです。東京都交通局などからは、セレブなイメージのある「麻布」という案が示されましたが、駅の住所は麻布十番1丁目にあることから地元の方々は「麻布十番」を押し、『麻布十番駅』と決まったようです。
電停の名前だった「一ノ橋」という案は、どうだったのでしょうか。
ちなみに『一の橋(一ノ橋)』という名前は、港区が運営する地域コミュニティバスの停留所に『麻布十番駅前[一の橋]』となっています。おそらく都電が廃止されると代替バスが走りますが、麻布十番駅ができた時にバス停『一の橋』は『麻布十番駅前』に変更されたのではないかと推測しますが、未確認です。そのほか、首都高速の『一の橋ジャンクション』、麻布警察署『一の橋交番』などにその名を残しています。
残念ながら都バスのバス停には、「麻布十番駅前」としか表記されていません。
まだまだ疑問が尽きることはなく、・・・・次から次へと広がります。
これをまとめていて、さらなる疑問が次々にわいてきました。
◆一番~九番までの組はどこに住んだのか、なぜ地名として残らなかったのか?
◆なぜ渋谷川が渋谷区から港区に入る天現寺で古川と名を変えるのか、河川の名称が途中で変わるのは地理的な要因が多いようですが、ここは歴史的な要因があるのか?
・・・時間がいくらあっても足りません。
一式双発高等練習機 キ54 [ミリタリーで不思議なもの]
キ54甲・・・操縦・航法訓練
キ54乙・・・通信・爆撃・射撃訓練
キ54丙・・・輸送機(乗客8名)
キ54丁・・・哨戒機(磁気探知機搭載)
Y39・・・・民間型輸送機
連絡機としても用いられ、満州国軍では、要人輸送機として利用されました。
戦後も、外地に残った機体が、国共内戦やインドシナ戦争で運用され、1952年くらいまで飛んでいたようです。
実機は北京航空航天大学と、オーストラリア戦争記念館にあるようです。
発動機は、日立ハ13甲 空冷9気筒エンジン(社内では『天風21型エンジン』と呼ばれていたようです)で515HP。写真に写っている綺麗な方のエンジンは、日野自動車で復元され、東京都八王子市にある日野オートプラザで展示されていましたが、今回の機体の里帰りに合わせて、立飛に戻って来ました。
エンジンを設計製造したのは、東京瓦斯電気工業で、昭和14年に航空機用エンジンの製造部門を日立製作所に譲渡し、『日立航空機』として東京瓦斯電気から引き継いだ大森工場でこのエンジンを製造していました。
日立航空機は、戦後合併や社名変更を繰り返して、現在流れを汲む企業は『小松ゼノア』です。私のラジコン戦車にも小松ゼノアのエンジンが積まれています。
その流れを汲むのがいすゞ自動車ですが、戦前国策により、特殊車両の製造部門が分離独立して日野重工業が設立され、戦車などの軍需車両を製造していました。
これが戦後民需に転換して日野産業となり、日野ヂーゼル工業を経て1959年に日野自動車と改称しています。1950年代には母体のいすゞと競合するトラックメーカーに成長した事は、素晴らしい事ですね。
日野ルノーやコンテッサなどの乗用車を手掛けていた事は、旧車乗りにとっては懐かしい事になってしまいました。
トヨタのFJクルーザーは、日野自動車製というのは、日野市民の私にとって嬉しい事実です。
エンジンの復元は、日野自動車の実験部門と生産技術部門が担当しました。状態は非常に良く、分解すると中からオイルが出てきたとか。
土に埋没していた部分の腐食が酷く、水中に露出していた部分の方が状態が良かったようです。
オンザロードマガジン vol.65 [日常の中の出来事]
その代わりオンザロードマガジンにサバイバルにかこつけてBBQの記事をアップしようとしたら、1/2ページになってしまい、火起こしだけ(^^;;っっ
【高輪築堤 その2 発見! 信号所跡】再び日の目を見た鉄路 [東京の坂と橋]
ここに一枚の蒸気機関車が、海辺を走る絵葉書があります。
◆絵葉書(写真1)
ここに写っている蒸気機関車は6400形です。この蒸気機関車は官設鉄道が輸入した旅客列車用蒸気機関車で、明治35年(1902年)に、アメリカのアメリカン・ロコモティブ社で製造され、30両輸入されました。明治時代後期を代表する旅客列車用テンダー式蒸気機関車の一つです。
蒸気機関車の種類を特定するため、一般社団法人鉄道文化振興会の代表理事と意見交換させていただきました。その際、
①6400形は東海道線では下り・・・新橋駅午前8時発、神戸21時20分着、上り神戸8時発、新橋21時20分着の最急行(現在の特急とほぼ同義)に運用されていたので、新橋に向かっているとすると時間が合わない
②線路の右側を走っているように見えるが、それでは逆走となるが煙は後ろにたなびいていることから逆走はしていない
との点から、裏焼の写真・・・鏡像で実は新橋から神戸に向かっているのではないかという点が議論になりました。
しかし、
①ここは明治32年(1899年)に山側に一線増やされていることから、最初からある複線で旅客輸送を賄っていたとすれば、海側が横浜方面の下り、中央が新橋方面の上りとなり、中央を走っているのは上り列車
②蒸気機関車は緩やかなカーブを走り抜けてくる雄姿であるが、品川駅を出ると高輪ゲートウェイ駅手前で進行方向右にカーブしている。今回高輪ゲートウェイ駅前の第四街区から発見された信号所跡の信号が絵葉書の信号とすると、カーブとの位置関係はほぼ一致する(前回も掲出した地図1参照 地図上で信号所の位置は、『高輪ゲートウェイ』と青字で書かれている『ト』の位置辺り)
以上のことから、最急行ではなく新橋方面に客車を牽引している6400形ではないかという事になりました。
◆地図1
この絵葉書から、興味深いことがまだ見つかります。
一つは、この写真が撮られた時期が明治42年(1909年)以前ではないかという点です。
なぜなら、明治42年に『車輛形式称号規程』が制定され、絵葉書の蒸気機関車はそれに基づき6400形となりますが、それ以前は600形として運用されていました。写真では不鮮明ではっきり判りませんが、少なくとも皆さんよくご存じの蒸気機関車のヘッドプレートが付いているようには見えません。もし明治42年以降であれば『64●●』という横長で真鍮製のプレートが付いているはずです。それ以前は前面ボイラーの丸い蓋の中心に600番台の番号が貼られていたはずです(写真1-2)。
◆官設鉄道600形(写真1-2 wikipediaより転載)
とすれば、新たな疑問が湧いてきます。絵葉書に山側には石積みの築堤が写ってないことから、山側と地続きになっていると考えられます。明治32年に拡幅された時に、ここ第四街区では山側に築堤は築かれず埋め立てられたのか、あるいは明治32年には築堤が築かれ山側にも海があったが、明治42年以前のどこかで埋め立てられたのか。
色々な古地図を当たってみましたが、いずれも地図が描かれた年代が特定出来ず、まだこの謎は解けていません。
さて、前回も取り上げた次の写真をご覧ください。
写真中央に石垣が上に伸びているところがありますが、これが信号所跡です。
もう少し拡大したものが次の写真3-1、3-2です。
◆信号所跡拡大(写真3-1)
◆信号所跡拡大(写真3-2)
この信号所跡には、木材を十字に組んだ信号機の基礎が発見されています。写真3-2でなんとなく木材が埋め込まれているのが、判ります。
次の写真は写真作家の吉永さんが撮られた第四街区の空撮写真です。
◆第四街区(写真4)
この中央やや右に信号所が写っていますが、吉永さんの許可を頂いて私がトリミングしたものが、次の写真5です。
◆信号所跡拡大(写真5)
絵葉書にもあるとおり、ここにあったのは腕木式信号機でした。次の写真の腕木式信号機は、鉄道文化振興会が保存・公開しているものです。
◆腕木式信号機(写真6)
つづく