東京の坂と橋 番外編119 滑川町の石仏1 [東京の坂と橋]
母親のお墓に行く途中に昔から気になっていた石仏群があるのだが、今回初めて立ち寄った。
左から、如意輪観音、地蔵菩薩立像、出羽三山供養塔、馬頭観音、出羽三山供養塔、石橋供養塔、記念碑と並んでいて、綺麗に整備されている。
地元の方々がしっかり守っておられる様子が伺える。
ここに6対の石仏群が集められたのは、一番右にある記念碑(写真では、一番右の木に邪魔されて見えない)にその理由が書かれていた。
上の写真の裏側に、『昭和55年度(1980年)道路拡張事業により移転す』と印されている。
今日は、その中から出羽三山供養塔と、石橋供養塔をご紹介しよう。
まず最初は冒頭の全体写真の左から三番目の出羽三山供養塔である。
正面向かって右から月山、湯殿山、羽黒山とならび、その下に供養塔と記されている。
右側面に1848年(嘉永元年)10月と建立年月が彫られている。
江戸時代後期に出羽三山への信仰が高まり、あちこちに出羽三山供養塔が建立された。
この供養塔は、出羽三山詣でを達成した人の記念碑であり、また出羽三山遥拝塔・・・この石塔におまいりすることにより、出羽三山に詣でたのと同じ功徳を得ることが出来る・・・の意味をもつ。
交通手段は基本的に「歩く」ことしかなかった江戸時代に、山形まで出かけていって出羽三山詣でをするのは、並大抵のことではなかっただろう。
もう一つ馬頭観音を挟んで右側に出羽三山供養塔がある(冒頭の写真左から五番目)が、こちらは正面向かって右から羽黒山、湯殿山、月山と刻まれている。
こちらの建立年月は、正面左上に彫られているが、風化して下部の10月しか読み取れない。
また、正面に刻まれている文字が前のものと違っている。
他の出羽三山供養塔を調べてみると、月山が左で羽黒山が右に刻まれているものもあるが、中心は湯殿山である。
これは、湯殿山が五穀豊穣に霊験があるとされ、農民に最も人気があったからではないだろうか。
冒頭の写真の左から六番目に石橋供養塔がある。
1804年(文化元年4月)の建立である。
もとはどこにあったのか、時間をかけて読んでみた。
左には『武蔵國比企郡山田村中 世話人 役人』とかろうじて読み取れた。
右側には、『近村隣郷信志善男女以助成四箇所石橋造立成就者也』と読み取れる。
残念ながら昭和55年以前は何処にあったのかわからなかった。
地元の古老たちなら覚えているだろう。
是非記録に残しておいてほしいものだ。
残りの三つは稿を改めたい。
東京の坂と橋 159 旧四谷見附橋2 (長池見附橋) [東京の坂と橋]
皆様には大変ご心配をおかけしましたが、ほぼ傷口はふさがりました。
まだ痛みはありますが、もう心配は無いと思います。
手の大きさは変わらないのに、指が数ミリ長くなった・・・!?
昨日の記事で、昭和45年を1960年と印してしまいましたが、1970年の誤りした。
訂正させていただきます。
さて今日は、旧四谷見附橋の現在の雄姿をお伝えしたい。
過去の記事については、次のリンクをご参照ください。
前回お伝えしたとおり、旧四谷見附橋は、八王子市の多摩ニュータウン内の長池に移築復元されて『長池見附橋』と名づけられた。(多摩市⇒八王子市に訂正しました)
もう、多くを語る必要は無いだろう。
現代によみがえった長池見附橋(旧四谷見附橋)をお楽しみください。
この橋の美しいアーチは見事に復元されている。
橋の下に立つと、覆いかぶさってくるような威圧感を感じるほど大きく見える。
また組まれた鉄骨は、素晴らしい幾何学模様を形成している。
高欄や街灯など装飾部分は、残念ながらレプリカであるが、躯体は四谷見附で解体された後、工場に運び込まれて、徹底的にレストアされた。
上の二枚の写真は、レプリカがここ旧四谷見附橋に飾られている。
徹底的に補修された後、工場で仮組みして検査した後、ここ長池に運び込まれて、組み立てられた。
ここで、旧四谷見附橋は幅員22mあったはずであるが、ここに立つととても幅員22mには見えない。
なんと復元時に幅員22mから17.4mへと変更されたという。
このシリーズが始まる前触れとして取り上げた街灯であるが、実は外観にわずかな差があることにお気づきの方も少なくないだろう。
電球の収まった白いガラスの球を支える部分のデザインがわずかに相違している。
さて、次の図に示された旧四谷見附橋の部品が、長池見附橋の袂に展示されている。
◆高欄 (昨日の記事でご紹介したとおり)
◆孔飾り石 これは水道管を橋の路面の下を通すために設けられたもの
この孔から橋を覗いてみた。
◆角石とレンガ
◆床組
一部木材が使われていたことにびっくり!!
長池見附橋(旧四谷見附橋)の袂にライトアップされた教会???・・・がある。
コルトーナ多摩という結婚式場だった。
いいなぁ・・・こんなところで結婚式してみたいなぁ・・・・
近代日本の歴史を見守ってきた、この長池見附橋(旧四谷見附橋)は、さらにこの先数十年、日本を見守っていくことだろう。
四谷見附橋の移築復元については、住宅都市整備公団発行の『四谷見附橋移設復元工事誌』を参考にさせていただいた。
東京の坂と橋 158 旧四谷見附橋1 [東京の坂と橋]
皆さまにご心配いただきました手の怪我は、ようやく傷口もふさがりつつあります。
仕事をするにはちょっと大変で、涼しい顔をするためにはロキソニンのお世話になっていますが、日々快方に向かっています。
心温まるコメント、nice、本当にありがとうございます。
左手5本と右手の親指、人差し指、小指の三本で結構打てるものですが、やはり傷には響きます。
いま少しの辛抱でしょう。
今日の本題は、東京の坂と橋の前回でとりあげたのが四谷見附橋ですが、取り壊された旧四谷見附橋のその後をお伝えしたいと思う。
1911年(明治44年)3月に着工し、1913年(大正2年)10月に開通した四谷見附橋は、四ッ谷駅をまたぐ格好で千代田区と新宿区を結んでいる。
この橋が開通するまでは、西から上ってきた甲州街道(新宿通り)は、ここ四ッ谷駅で外堀にぶつかると、クランクして四谷門を通り、半蔵門へと向かっていた。
橋のデザインは、この地点から南にある迎賓館(当時の赤坂離宮)の外観と調和させたネオ・バロック様式となっている。
この橋の高欄の上方に並んだ鉾は迎賓館の正門の柵垣の縦格子がモチーフになっている。
また、下の写真の高欄の中央にある鏡と花綱は、迎賓館の朝日の間の装飾に同じものが見られるというが、残念ながら、私は見たことが無い。
橋の高欄の中央部にある橋銘板は、迎賓館の花鳥の間の扉の上部を模したものと言われている。
明治維新になると、日本は『御雇外国人』による近代化を推し進めるが、日本人の力で欧米の首都などにある構造物に負けない素晴らしい橋が架けられることを世界に示した歴史的価値のあるものである。
橋台のレンガ積みは、イギリス式につまれているが、橋台にイギリス式のレンガ積みは珍しいという。
レンガ積みの方式については、次の過去記事をご参照ください。
⇒煉瓦の積み方
1950年(昭和25年)戦災復興都市計画事業により、新宿通りが幅員25mから40mへと拡幅することが決定した。
しかし、旧四谷見附橋は昔の道幅にあわせてかけられていることから、幅員は22mしかなかった。
1974年(昭和49年)に四谷見附橋の架け替えが決まると、地元住民や有識者による保存の要求が高まる。
近世橋梁技術の貴重な交通遺産として文化的価値は高く、また鉄製のアーチ橋としては日本最古のものともいわれていた。
東京都は、高まる保存の要求を受けて綿密な調査を行った結果、長年使用されてきたにもかかわらず、腐食や変形が少なく、更なる長期間の使用にも耐えられるとの結果を得た。
その結果を受けて、東京都は保存方法について土木学会に委託して検討した結果、多摩ニュータウンの開発の中で、長池地区に復元することが決まる。
旧四谷見附橋の装飾品は、地元住民の強い要望があり、新しい四谷見附橋へと受け継がれた。
1991年(平成3年)に完成した橋は、旧四谷見附橋を強く意識したデザインとなっていて、その幅員は、旧四谷見附橋の22mから40mへと広がった。
次の高欄は長池公園に展示されている旧四谷見附橋の高欄である。
さらに次の写真は、現在の四谷見附橋の高欄を同じ角度から撮ってみたもの。
前回もアップしたが、現在の四谷見附橋の街灯は、旧四谷見附橋から移植されている。
さらに、この古い街灯をモチーフに橋の上には、新たに作られた街灯が設けられている。
旧四谷見附橋は、冒頭の昔の写真にあるとおり、1970年(昭和45年)まで都電が走っていた。←訂正しました
長池公園にあるモニュメントには橋の路面のカットモデルが置いてあるが、そこには路面電車の線路まで再現されている。
さて、次回は復元された旧四谷見附橋の現在の雄姿をお届けしよう。
東京の坂と橋 157 四谷見附橋 [東京の坂と橋]
昨日街灯の写真のみにて失礼してしまったが、その街灯のうちの一つがここ四ッ谷駅の上にかかっている四谷見附橋についている街灯である。
現在の四谷見附橋は、1991年(平成3年)に架け替えられた橋であるが、1913年(大正2年)に架けられた初代四谷見附橋の概観を踏襲している。
上の写真は、現在の四谷見附橋を新宿方面から半蔵門方向を見たところ。
次の写真は、橋の全体像を中央線の車両を絡めて撮ってみた。
今は外堀いっぱいに四ッ谷駅が広がっているが、1894年(明治27年)に開通した中央線の前身である甲武鉄道は、外堀の土手を削って敷設されていた。
(四谷見附橋の説明標識より借用)
次の写真は、初代四谷見附橋の写真である。
(四谷見附橋の説明標識より借用)
左端に昨日ご紹介した街灯が載っている。
現在の四谷見附橋にも、この街灯が再利用されている。
高欄(手すり)は新調されたが、デザインは初代の四谷見附橋を模して作られている。
初代四谷見附橋を取り壊した後、使用されていた高欄は新宿区立新宿歴史博物館と多摩市にある長池公園に展示されているが、次の写真は、新宿歴史博物館入り口に展示されているものだ。
四ッ谷駅のホームから現在の橋を見上げても、非常にレトロ感溢れるつくりとなっている。
現在は新宿から甲州街道(新宿通り)を上ってくると、四ッ谷駅のところでこの四谷見附橋を渡り半蔵門へと続いているが、旧四谷見附橋が出来る前はここには橋が無く、 江戸城防衛の観点からクランクして四谷門へと至った。
(四谷見附橋の説明標識より借用)
現在四ッ谷駅の北側に小さな橋が架かっているが、橋の名を記すものは無い。
上の写真の左手に木がこんもり繁っているところが四谷門の跡である。
明治時代の地図を確認すると、確かに江戸時代と変わらぬ道筋で、市電が迂回している。
現在の地図と比較してみよう。
次の写真は、1868年(明治元年)の四谷見附である。
左手に見える屋根のかかったものは玉川上水を外堀の上を通すために架けた懸樋である。
四ッ谷駅を出ると、次の写真の碑があるのをご存知だろうか?
これは、1897年(明治30年)に福羽美静によって建立されたものだ。
碑文を読んでみると、1896年(明治29年)に四ッ谷駅から堀端まで桜の植樹を行なったことが印されていて、福羽美静が和歌を歌っている。
たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや
いまや福羽が植樹した桜は見当たらないが、その意志は引き継がれて、春には外堀沿いの土手に見事な桜が咲き誇り、多くの人を楽しませている。
二つの街灯 [東京の坂と橋]
なんとか二日間講義を喋りきることが出来ました。
喉の具合は・・・よくは無いので、今日は休ませていただきます。
本来今日取り上げようとした記事ですが、一部写真のみのアップとさせていただきます。
次の2枚の写真の街灯をよくご覧ください。
全く同じ街灯ですが、立っている場所が全く違うだけでなく、ひとつは1913年製の箸に取り付けられた街灯で、ひとつは1987年製の橋に取り付けられた街灯です。
実に76年の時空を越えて復元されたものです。
その詳細は次回ご紹介しましょう。
えっ、場所ですか?
下の写真の背景には、場所を特定するような特徴的な建物が写りこんでいます。
立山から乗鞍への道5 字書き岩 《東京の坂と橋 番外編の番外編5》 [東京の坂と橋]
一路乗鞍に向けて、国道471号を走っていると、岐阜県高山市の旧上宝村付近を走行中、「え゛え゛、なんだあれ!!」ということで三度緊急停車した。
昔20代の頃、初代MR2で逆向きに阿房峠から降りてきて通ったはずであるが、これは記憶に無い。
道路脇の岩盤に彫りぬかれた大きな文字は、異様に目立つ。
この岩がどれだけ大きいのか、これ等の写真ではよく分からないだろう。
道路に面した石製の柵も異常に大きいのだが、冒頭の写真では柵も文字を刻んだ岩も両方とも大きいので、その大きさが実感できない。
次の写真で、道の先に止まったハイラックス君と比べれば、その大きさが実感できると思う。
石製の門柱は、軽く2mを越えている。
あたかもガリバー旅行記に描かれた巨人の国に来たような感さえある。
上宝村教育委員会が設置した標識によると、次のように書かれている。
昔、この岩に弘法大師が字を書き、その後、江馬左馬助が大文字を書いたと伝えられている。
また、寛永年間(1624~43年)に、高山宗献寺の総南裔は「萬子不易」の四大文字を書いたといわれる。
「字書き岩」の名もこれより起こったものと思われる。
明治40年、森野喜衛門繁平翁は、戦没者の武勲をたたえ、5年の歳月と巨費を投じて、乃木希典揮毫による「皇威輝八紘」の大文字を彫刻したのである。
人里離れた山の中で、聞こえてくるのは、前を流れる川の音と、谷に響き渡る蝉の鳴き声のみである。
ハイラックス君のクーラーは壊れたままなので、窓を全開で走っていくのだが、高原の空気は爽やかで、むしろ屋根のあるのがわずらわしいくらいである。
M38君で走り抜けたら、どれだけ爽快なことか。
これだけ寄り道をしながらのドライブとなったが、予定より1時間以上早く乗鞍の定宿、こだまへと到着した。
源泉かけ流しの露天風呂に入ると、一週間の疲れは昇華し、心地よい眠りが訪れた。
昨日の記事に「M38君の部品紛失」とお知らせしたが、部品としてはたいしたことのないもので、走行にも全く支障のないものである。
右後輪の後ろに白い星のマークが付いているが、そのマークの前あたりにスペアタイヤをサイドにつけるときのステーが付いていないのである。
ボディーをレストアしたときに外して、そのまま付け忘れたものと推測される・・・
・・・が部品が見当たらないのである。
まぁ言われても「???」という程度の部品なので、困るほどのことでもないのだが、やはり最初から付いていたものが付いていないのは、寂しいものである。
立山から乗鞍への道4 《東京の坂と橋 番外編の番外編2》 [東京の坂と橋]
笠付円盤型石仏の笠の部分が乗っているだけなのかどうなのか2kさんからご質問を頂いたが、目視した限りでは、漆喰のようなものは見えなかった。
ただ、石の接合部を凸と凹に彫ってかみ合わせている可能性は否定できない。
また昨日ご紹介した円形の石仏について下総弾正熊さんのおっしゃるとおり、彫られているのは庚申塔によく彫られる青面金剛だ。
てんてんさんから、「青面金剛が顔の上に乗っている」とのコメントを頂いたが、青面金剛は『邪鬼』を踏みつける形で表現されることが多いことから、この踏みつけられている顔は『邪鬼』だと思われる。
話は横道にそれるが、青面金剛はインド仏教に由来する物ではなく中国発生の道教の考えを受けて日本で生まれた明王である。
昨日もご紹介したが、次の全景写真の右側に赤いお社が見えているが、その中には2体の石仏が祀られている。
なんと、一体はお顔とお身体に金箔が貼られている。
さらに左側にあるお社の中には、左右両側にそれぞれ2体の石仏を従えた阿弥陀如来が金色に輝いていた。
飾られた花はドライフラワーに生ってしまっているが、周辺含めてしっかり維持管理されているようである。
何故このような立派な阿弥陀如来がお寺さんではなく、このような街角の社に祭られているのか・・・多くの謎を抱えたまま車を発進させた。
途中庚申塔のようなものが数基目に入ったが、ここは停まらず先を急いだのだが、それも数百メートルと続かなかった。
う~ん、これは停まらずにはいられない。
これはいずれも古いものに見えたが、裏に刻まれた建立年月は、『昭和7年12月』と彫られていて、子々孫々の繁栄を祈願した文言が刻まれていた。
その隣のある記念碑は、上部に『日露戦争』と彫られており、当地から日露戦争に出征して戦死した方々をともらったもののようだ。
さて、今日は8月15日。
現在の日本があるのは、多くの犠牲と悲しみを乗り越えて来たからこそのものであるが、この犠牲と悲しみは忘れてはならない。
このお盆の時季に故郷で過ごすことの出来ない方々に、次の歌を送りたい。
最後に、昨日の記事の最後にM38君の写真を載せたが、見事tooshibaさんが撮影場所を言い当てた。
tooshbaさん、参りました!!!
昨日の写真に写っている街灯は、私の知る限り全く同じものが四谷と多摩ニュータウンの二箇所にある。
そして、M38君が写っているのは多摩ニュータウンの長池というところである。
詳細は記事にアップするので、それまでのお楽しみ・・・。
そうそうもう一つ最近大変なことを発見した。
上の写真のM38君の写真を見るとよく分かるのだが、レストア前には付いていた部品がなんとレストア後には無くなってしまっている。
現在部品を捜索中である。
立山から乗鞍への道3 《東京の坂と橋 番外編の番外編2》 [東京の坂と橋]
昨日ご紹介した笠付円盤型石仏のある場所には外にも興味深い石仏が数体安置されている。
お社を挟んで、左側に昨日紹介した笠付円盤型石仏があるが、その右側にも珍しい石仏がある。
大きな石の中心を円形に繰り抜き、別の石材で彫られたご僧侶だろうか、安置されている。
お顔の部分が違う材料で作られているようであり、一度風化で頭が落ちてしまったものを修復したのだろうか?
さらにその右側に厨子の形の石祠の中に石仏が安置されている。
いずれも厨子の入り口より大きな石仏が中に入っており、外側の石製の厨子は上から被せたのだろうか?
さらにその右にある石の祠には何も祭られていない。
さらにその右には石製の囲いをして守られている石仏が安置されている。
こちらは、石の中心を丸く繰り抜かれていて、中心に石仏が掘り込まれている。
明らかに笠付円盤型石仏とは作風が異なるため、別の石工の手によるものだろう。
今回は製作年代や由来など調べきれず、単なる写真の羅列となってしまったことについて、お許しいただきたい。
最後にここのところハイラックス君ばかりアップしていたので、≪立山から乗鞍への道≫の次の記事につながるM38君の写真をアップして終わりたい。
この写真で次の記事がなんなのかお判りになった方は『通』だ。
立山から乗鞍への道は、まだまだ続く・・・
立山から乗鞍への道2 笠付円盤型石仏 《東京の坂と橋 番外編の番外編2》 [東京の坂と橋]
昨日ご紹介した不思議な笠を被った石仏を写真に収めると、車に乗り込んで一路乗鞍へ・・・・
・・・・「お、おっ、なんだ、なんだっっ」
数百メートルも走らないうちに前方に先ほどの不思議な石仏と双子のような石仏を発見して、またまた車を止めざるを得なかった。
ここで昨日ご紹介した石仏と、その先で発見した石仏を比較してみよう。
【昨日ご紹介した石仏】
【その先で発見した石仏】
ちょっとした手がかりから色々調べた結果、これらの仏像は馬瀬口村在住の石工《中川甚右衛門》の作であることが判明した。
昨日ご紹介したものは、1847年(弘化4年)甚右衛門作の如意輪観音像、
本日ご紹介したものは、1848年(嘉永元年)甚右衛門作の不空羂索観音像
である。
この独特な形をした石仏を、石仏研究家の歳滝本靖士氏は『笠付円盤型』と名づけられた。
甚右衛門は、1823年(文政6年)に初めてこの笠付円盤型の石仏を製作した。
その石仏は、熊野川上流の文殊寺内に現存するという。
川の自然石を割って、片方をほぼ自然の状態で笠にして、もう片方を円形に掘り出し、中心に石仏を彫り込んだといわれている。
いずれの石仏にも円形部分の正面には凡字が彫られている。
これは光明真言曼荼羅を、今風に言うならば「3Dで表現した」ものだ。
中心部に彫られた仏像は、このほか地蔵菩薩、馬頭観音菩薩などがあり、地蔵には「地蔵真言」の凡字が、馬頭観音には「馬頭観音真言」の凡字が彫られている。
甚右衛門は、自分の作品の多くに名前を残していて、名前の残されたものとしては様々な石仏の他、宝篋印塔も彫っているようだ。
もちろん、庚申塔も残しているが、舟形背光のごく一般的な形のようだ。
また昨日ご紹介した地蔵菩薩坐像もこの甚右衛門の作の可能性があるが、資料が手元に無いので確定できず、「可能性がある」とした。
出来ればもう一度現地に行って確認したいものである。
もし甚右衛門の作であるとするならば、1843年(天保14年)の作である。
【昨日ご紹介した地蔵菩薩坐像】
富山市教育委員会編『富山市石仏・石塔等分布』と、立山町教育委員会編『立山町の石造物』という資料のあることが分かったが、ぜひとも手にとって確認してみたいものである。
以上の内容は、富山市埋蔵文化財センターのHPなどを参考にさせていただいた。
上記の資料は国会図書館の検索でもヒットしなかったので、もう一度地元に出向くしかないのだろうか
立山から乗鞍への道1 《東京の坂と橋 番外編の番外編》 [東京の坂と橋]
立山から乗鞍への実走した道は、次のとおりです。途中コンビニ休憩や、撮影に止まること数度でしたが、ほぼ3時間程度で走り抜けました。
このルートをご覧頂くと、阿坊トンネルを抜けて国道158号から右折して乗鞍に向かうには、白骨温泉を抜けていくのが一番近道ですが、カーナビによると白骨温泉に向かう林道には通行止めのマークがついています。
そこでさらに下って、普段松本から昇ってきたときに通る道を行くことにしました。
実は白骨温泉に向かう林道は現在土砂崩れにより通行止めとなっていたようです。
さて、会場から立山の街へと数回買出しに行ったのですが、その途中に非常に気になるお地蔵さまがありました。
道沿いの草原に忽然とお姿を現すその姿は、とても柔和なお顔をしています。
思わず買出しの途中に、車を止めて撮ってしまいました。
残念ながら建立年月日や、何故建立されたのかなど謂れは分かりませんでした。
時間があればご近所の方に聞いたり出来るのでしょうが、撮影していた数分間に行き交うのは車ばかりで、時間実も無かったことから調べることが出来ませんでした。
台座部分の感じは江戸時代中期から後期くらいの時代はあるように思えるのですが、お地蔵さまの坐像の方は、台座と年代があわないと思います。
さらにお地蔵さまの持っている錫杖は本物の金属製で古いものには見えません。
本来、野仏などは『東京の坂と橋 番外編』で取り上げてきたのですが、建立年月日も言われも分からないことから、番外編の番外編として取り上げました。
次は、立山から乗鞍に向かうのに、当初山越えの林道を走るつもりだったのですが、大雨洪水警報が出ていたので林道越えは自重しました。
富山市内まで下りていき、田んぼの真ん中の道を走っていると突然目に飛び込んできたものは・・・「はぁ、なんだこれ!!!!????」
すかさず後続車のいないことを確認すると緊急停車です。
過ぎ去った景色を振り返ると・・・・
な、な、なんとこんなものん見たこと無い!!
思わずカメラを握り締めると車を降りて、駆け寄りました。
裏側を見ると、文字が刻まれていましたが、読んでいる時間も惜しく、写真に撮って後から読めばいいやと思ったのが失敗!!
写真では判読できませんでした。
冬は大雪が積もるでしょうに、よく頭の傘が落ちずにいるものですね。
最後にハイラックス君の蔵出し画像です。
ここのところハイラックス君の画像ばかりなので、M38君が拗ねるといけませんね。
昨日、しっかりM38君の写真も撮ってきたので、このシリーズが終わったら、次にアップしましょう。
東京の坂と橋 156 病院坂 [東京の坂と橋]
今日は久しぶりに完全オフの日で、立山にこもるための買出しに行く予定であったが、午後から夕方までドライブした後、多摩センターへと向かった。
まだ坂道に目覚める以前は、この坂をよく通ったものだ。
最近は車で通り抜けるだけで、なかなか写真を撮る機会が無かったが、今日は近くのマックにM38君を置いて、写真を撮ってきたのでアップしたい。
今まで小説の題材となった坂は、『K坂』、『無縁坂』と取り上げてきたので、今回が小説の題材となった坂の3作目である。
名前 | ふりがな | 別名 | 所在地 | 北緯 | 東経 | 全長 | 高低差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
病院坂 | びょういんざか | ― | 世田谷区成城1丁目・3丁目 | 北緯35度41分秒 | 東経139度44分秒 | 240m | 13m |
『病院坂』といえば、あの金田一一(きんだいちはじめ)のじっちゃんの最後の事件となった『病院坂の首くくりの家』が有名だ。
この事件は、そのじっちゃんの金田一耕助をもってしても解決まで20年もかかってしまった。
金田一耕助は、事件解決後財産を処分して米国へと向かい消息不明となってしまう。
小説に登場する病院坂は港区高松宮邸のすぐ脇にある坂だと推測されるが、実際その坂には名前は付いていない。
金田一耕助の生みの親の横溝正史は生前成城に住んでいて、その住まいからすぐのところにこの病院坂があることから、名前はこの坂から来たのではないだろうか。
この坂の東側は砧中学校、西側は成城3丁目緑地となっており、病院は無い。
また、この坂には他の坂によくある名前の由来をしるしたような標識はない。
ただ、周辺の人々には『病院坂』の通称名でとおっている。
以前昔からこの付近にすんでらっしゃった方に、「なんで病院が無いのに、病院坂っていうんですか?」と聞いたら、「戦前は坂の上に陸軍の野戦病院があって、よなよなうめき声や叫び声が周辺にもれ出ていた・・・」。
「よなよな・・・」は私の創作です(^^;っっ
また別の方からは、「結核の隔離病棟があった。」という話をしてくれた。
1941年と、1944年の陸軍が撮影した航空写真をみると、現在公園になっているあたりに、4棟の集合住宅のようなものが見えるが、これが病棟なのだろうか?
次の写真は、1941年の航空写真である。
(国土交通省 国土変遷アーカイブ 531-C1-4 1941年7月8日撮影)
冒頭の地図と見ていただくと、明正小学校の東側に公園を示す緑色の位置と、上の写真の同じ位置に縦に4棟建物が並んでいるのがお判りだろうか?
現在区立公園となっているということは、昔はなんかしら公的な施設があったとしてもおかしくないだろう。
この坂の下は世田谷通りとの交差点になっているが、この世田谷通りをわずか1km東進した世田谷区大蔵に旧東京陸軍第4病院(現国立成育医療研究センター)がある。
戦争末期になって、東京陸軍第4病院が手狭となり、臨時に野戦病院を近くに構えたとしてもおかしくないだろう。
車であればわずか10分もかからない距離である。
二子玉川から多摩堤通りを北進すると、世田谷通りと交差する。
正面交差点が世田谷通りで、交差点から先から成城通りとなり、小田急線成城学園前駅へと至る。
交通量はそこそこ多いものの、坂の中ほどは、センターラインを引けないほど狭くなっている。
上の写真は、世田谷通り交差点の歩道橋から坂の上方向を見たところ。
S字を描いて急な勾配の坂道が続く。
次の写真は、坂の上にある成城3丁目緑地から坂下方向を見たところ。
?成城3丁目緑地は、豊かな自然をのこしている。
ここは武蔵野台地の南縁にあたり、この坂道のあるがけは国分寺崖線である。
このハケからは、水がこんこんと湧き出ていて、がけ下には小さな池がある。
水に手を浸すと、冷たく気持ちよかった。
さてさて、坂のお話しは以上です。
一通り撮り終わって、マックでアイスコーヒーを頂いて一休み!!
ちょっとオーバー気味に撮ってみました。
ちょっとは美味しそうに撮れたかな!?
その後多摩センターへと移動して買い物をして外に出ると、もう薄暮の空になっていました。
東京の坂と橋 四方山話56 三軒茶屋 [東京の坂と橋]
先日大山道の道標を見に行って以来、すっかり三軒茶屋の魅力に取り付かれてしまい、今日もナイアガラ乗務の帰りに立ち寄った。
三軒茶屋の名前の由来は、先日の番外編でも触れたとおり、江戸時代ここ大山道と登戸道の追分に三軒の茶屋があったことに始まる。
信楽(後の石橋楼)、角屋、そして田中屋だ。
その田中屋が商売を変えて現代に続いている。
残念ながら角屋は明治時代に廃業、石橋楼は1945年(昭和20年)まで営業が続けられたが、強制疎開の命令が下り閉店した。
田中屋は火災で焼失したものの、田中陶器店として昔と同じ場所で営業している。
前回の番外編の記事で、
さらにこの道標によると、右に行くと『富士 世田谷・登戸道』、左に行くと『二子道』とあるが、何故正面に大山道と相州通と刻まれているのか?
ひょっとすると、右に行っても、左に行っても『大山道』だったのではないだろうか!?
経由地の違いから世田谷・登戸道と二子道と名付けられているのではないかと思う。世田谷・登戸道を下ると、町田を経て海老名付近で国道246号に合流して大山阿夫利神社のある伊勢原へと向かう。
と書いたが、右の江戸期の地図を見ていただくと、世田谷通りを『旧大山道(本道)』、玉川通りを『新大山道(近道)』としていることから、やはりどちらに行っても大山道であったことが、今日のぶらり旅で判明した。
三軒茶屋の街は、とても下町の雰囲気を漂わせていて、多くの人でにぎわっている。
さて、次の写真は何処の商店街かお判りだろうか?
これは関西ではなく、なんと三軒茶屋にある商店街だ。
また帰りは、ここ三軒茶屋から東急世田谷線に乗り、下高井戸へと向かう。
雨の日の撮り鉄も結構面白いことを発見!!
最後は写真の羅列になってしまったが、時間をみつけて大山道を歩いてみたくなった。
東京の坂と橋 番外編118 大山道 [東京の坂と橋]
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さて、今日は昨日アップできなかった記事の仕切り直しである。
いつも当ブログにお越しいただく、koh925さんから、三軒茶屋にこんなものがあるよとアップされた記事を紹介されて、私も是非一度見に行きたいと考えていたものである。
三軒茶屋は、今まで数限りなく訪問していたにもかかわらず、こんな素敵な道標の存在に全く気がついていなかった。
その道標は、渋谷から国道246号線を下っていくと、三軒茶屋で玉川通りと世田谷通りに分岐するところに位置している。
この道は非常に歴史のある道で、律令時代の東海道の本道で足柄道と呼ばれていたが、江戸時代になると矢倉沢往還と呼ばれ東海道の脇街道となる。
江戸城赤坂門を起点に
渋谷⇒三軒茶屋⇒二子玉川⇒長津田⇒厚木⇒秦野⇒松田⇒足柄峠
などを経て、沼津へと至る街道である。
途中に大山阿夫利神社があり、大山詣での人たちで大変にぎわったことから『大山道』とも呼ばれている。
今の国道246号がそのルートに近い。
ここ三軒茶屋は、江戸時代に大山道(玉川通り)と登戸道(世田谷通り)の追分に、信楽、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことから付いた地名だといわれている。
江戸時代の文化文政期にはこの呼び名が定着していたようだ。
その追分にこの道標が立っていた。
現地へ行ってこの道標を見た時に非常に違和感を感じたのは、私だけでは無いだろう。
普通追分に道標を設置するとすれば、何処を正面にすえるだろうか。
東の渋谷から西に下ってきた大山道が、ここ三軒茶屋で左右に分かれるとすれば、正面は東の渋谷に向いているのが自然ではないか?
なんとこの道標は、南側を向いているのである。
南を向いている正面には、大きく力強い文字で『大山道』と書かれている。
そして、その右肩に『左相州通』と記されている。
(上の写真ご参照)
次に、正面向かって右側(東側)には、『右富士世田谷、登戸道』と記されている。
(下の写真ご参照)
正面左手に回り込むと、田園都市線三軒茶屋駅に降りる階段があるため、背後のカラス越しにしか撮れないが、次の写真のように記されている。
『此方 二子通』
左右に書かれた行き先から判断すれば、やはり東の方向の渋谷方面を正面に考えてぴったり合う。
背後に回ると、1749年(寛延2年)に建立され、1812年(文化9年)に再建されたことが印されている。
世田谷区教育委員会の資料によると、昔は渋谷方向を向いていたようであるが、玉川電車の開通や、道路の拡幅により数回移転されてきた。
その後1983年(昭和58年)に、地元三軒茶屋町会結成50周年の記念事業の一環として昔からの位置に近い現在地に復されたようだ。
それでは、なぜ復元するとき、元の方向を向かせなかったのか?
残念ながら、その答えは見つからなかった。
さらにこの道標によると、右に行くと『富士 世田谷・登戸道』、左に行くと『二子道』とあるが、何故正面に大山道と相州通と刻まれているのか?
ひょっとすると、右に行っても、左に行っても『大山道』だったのではないだろうか!?
経由地の違いから世田谷・登戸道と二子道と名付けられているのではないかと思う。世田谷・登戸道を下ると、町田を経て海老名付近で国道246号に合流して大山阿夫利神社のある伊勢原へと向かう。
また、世田谷・登戸道の頭に冠している『富士』はどういう意味があるのか、調べだしたら切りがなくなった
何か新しいことが判明したら、その時点でお伝えしたい。
さて、上に載っている不動明王は、ちょっと柔和なというかコミカルなお顔をしている。道標と不動明王の関係については、もう少し調べてみたい。
舟型背光の風化は激しく、コンクリートだろうか、補修した痕が見られる。
万葉の頃より多くの人がこの道を歩み、歩んだ人たちの数の人生を見守ってきたこの追分は、この先も絶えることの無い人の営みを見守り続けるのだろう。
最後に、この追分より東に進めなくなってしまった世田谷線の車両をアップして終わりたい。
この世田谷線の車両たちも新世代へと移行し、渋谷⇔下高井戸間を走り抜けた記憶のある車両は今は既にいない。
東京の坂と橋 番外編116 狭山池公園【入間市博物館への道2】 [東京の坂と橋]
(上記地図上部の『箱根ヶ崎⇒入間市博物館』をクリックすると大きい地図でご覧になれます。)
箱根ヶ崎駅を出てすぐに左に小さな路地がある。
この道が旧鎌倉道の道筋であると記されている資料もあるが、本当にそうなのか確認できなかった。
この道を北上すると、旧青梅街道と旧国道16号の交差する『箱根ヶ崎』交差点に出る。
途中このような板塀の家・・・いや何かの工場だろうか・・・を発見!!
旧青梅街道との交差点を過ぎると道は緩やかな上り坂となるが、すぐに左手にそれる道を進むと、狭山池公園へと至る。
狭山池公園は、立川で多摩川に注ぐ残堀川の源とされているが、実際はこの池からさらに数分遡った丸池が本当の水源のようだ。
次の写真は、狭山池から残堀川が流れ出したところに立っている標識である。
上の写真の向かいには、1865年(慶応元年)に建立された常夜灯がある。
元は、残堀川が日光街道と交差する橋の袂に、天下泰平と村内の安全を祈念して立てられたものだが、関東大震災で倒壊してしまう。
その後1986年(昭和61年)に狭山池公園が整備されるときに、現在地に移設復元された。
その台座には見事な中国の故事にならったレリーフが彫られている。
この馬頭観音は、1856年(安政3年)11月に建立されている。
池に突き出したような中ノ島に小さな祠が祭られているが、これは厳島神社だ。
箱根ヶ崎駅を出て加藤塚を経て狭山池まで、歩いた距離はわずか1kmであるが、すでに改札を出て1時間が経過していた。
入間市博物館までの道のりは遠く、先を急ぐことにした。
明日金曜日は仕事が終わると、そのまま立山に向かいます。
帰宅するのは日曜日になると思いますので、皆様が他のところへの訪問が思うに任せないと思いますが、ご容赦ください。
どうもお天気は下り坂・・・ちょっと大変な3日間になりそうです。
東京の坂と橋 番外編115 加藤塚 【入間市博物館への道1】 [東京の坂と橋]
6月10日日曜日はジープの機能美展の最終日、ジープの引き取りのため入間市博物館へと向かった。
我が家のある高幡不動から入間市博物館へ向かうには、通常新宿に出て西武線に乗り入間市駅からバス便となる。
ぐるっと大回りしなければいけないのである。
入間市博物館の最寄り駅を調べると、八高線の箱根ヶ崎である。
バス路線を調べると、箱根ヶ崎と入間市駅を結ぶ西部バスが、入間市博物館の近くを通るが、残念ながら使い物にならない。
なぜなら次の写真をご覧頂くとお判りの通りだ。
そこで、箱根ヶ崎から入間市博物館まで先日の金曜日にハイラックス君で行った時にトリップメーターで計ると、5kmしかない。
以前から車で通るときに気になるところが何箇所かあったことから、箱根ヶ崎駅から入間市博物館まで歩くことにした。
次の地図が実際に歩いたコースをトレースしたものだが、延べ6.4kmの道のりを歩いた。
高幡不動から箱根ヶ崎へは、京王線で京王八王子に行き、八王子から八高線に乗り換える。
八王子駅で、東京行きの快速と終点八王子に滑り込んでくる八高線の離合の瞬間。
箱根ヶ崎駅の西口をコンコースから眺めると、背の高い建物は無く、奥多摩の山々がすぐ近くに見える。
箱根ヶ崎駅の東口からは、狭山丘陵が目の前に見える。
箱根ヶ崎駅東口の駅前を旧国道16号(都道166号線)を横田基地の方へ右折して数百メートル歩くと、加藤八幡宮がある。
次の写真の先の交差点が、新青梅街道と旧国道16号が立体交差する箱根ヶ崎の交差点だ。
この八幡宮とその裏にある塚は昔から気になっていたのだが、車で通過するだけでなかなか立ち寄る機会が無く、ようやくこの日立ち寄ることが出来た。
お宮の扁額には、『鎮静』と書かれている。
ここには『加藤塚』と呼ばれる塚がある。
瑞穂町教育委員会の資料によると、この塚の由来の概略は次のとおりである。
1582年(天正10年)4月21日、武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻子と数名の家臣を連れて当地まで逃れてきた。
北条氏の配下で当地を守っていた村山土佐守の率いる兵と戦い討ち死にした。
村民はその死を哀れみ、直径11m、高さ1.5mの塚を築き二基の五輪塔を築いて葬った。
寛政年間(1790年代)にいたり、加藤氏の末裔といわれる上野原の加藤最次郎が石塔を立てたり、付近の円福寺に現存する馬上丹後守像等を収めたのをきっかけに、村民に間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。
塚の上には大欅があったのをはじめ、境内には桜、杉、クヌギ等の大木が繁っていたが、国道16号の敷設と横田基地を離発着する航空機の障害となるため、伐採されたという。
塚の中央には、次のような立派な石塔が建っている。
中央には3人の戒名が書かれていることから、墓標と思われる。
向かって左側の側面には、建立した加藤最次郎の名が記されている。
また右側の側面には、天正10年4月11日と記されていることから、瑞穂町の資料は間違えなのだろうか?
中央の墓標の左右には、崩れた五輪塔が安置されている。
次の写真は、かろうじて形を保っている左側の五輪塔だ。
正面向かって右側の萬霊塔(等)にも天正10年4月11日と記されている。
崩れてしまった五輪塔に比べ、墓標と萬霊塔はとても220年(←訂正しました)の時を経て現代に伝わってきたものとは思えないほどの良い状態を保っている。
落ち武者が討ち取られただけで、はたして村人は塚まで作って供養するだろうか。
もともと何かしらの縁があったから、ここへ逃げ延びてきたのだろうか?
八幡宮まで建立して、後々の世まで供養されたということは、少なからぬ縁があったものと考えるのが普通だろう。
次回は、江戸時代は玉川上水の補助水源として活用されたて残堀川の水源である狭山池をご紹介します。
東京の坂と橋 四方山話55 江戸の町2 町人の暮らし向き3【江戸の物価】 [東京の坂と橋]
今日もすっきりしないお天気だと思ったら、午後からはひどい雷雨に見舞われました。
それもすぐにやむようなものではなく、ずっと降ったり止んだり。
ただ、夕方一時的に青空が覗いたときに虹が出てきました。
こんなときに限って愛機のD300Sは手元に無く、コンビニにハイラックス君を止めて、携帯でパチリです。
丁度多摩都市モノレールが走り抜けていくところで、あたかも虹のアーチをくぐっていくように見えます。
さて、今日の本題は、江戸時代の人々の暮らし向きについて、他のコラムにアップしているものをブログ用に書き下ろしました。
今回は、江戸時代の物価がどのようなものだったのか、お米を基準に比較してみました。
江戸時代といっても二百数十年続いたわけですから、その間物価は大きく変動しているでしょう。
まずは、文化文政期(1800年代初頭)の様々なものの値段を調べました。
次に、お米の価値が現代と文化文政期が同じとして、江戸時代のものを現代価値に引きなおしています。
お米10kgの一般的な価格を4,000円として計算しています。
品 目 | 基準 | 江戸時代の価格 | 現代に換算 | |
---|---|---|---|---|
現代 | お 米 | 10kg | 270文 | 4,000円 |
収入 | 腕のたつ大工 | 日当 | 500文 | 7,407円 |
月収 | 12,500文 | 185,185円 | ||
行 商 人 | 日当 | 200文 | 2,963円 | |
月収 | 5,000文 | 74,074円 | ||
生活 関連 | 9尺2間の長屋の家賃 | 1ヶ月 | 400文 | 5,926円 |
髪結い(店舗) | 1回 | 28文 | 415円 | |
髪結い(通い) | 1回 | 200文 | 2,963円 | |
銭湯 | 1回 | 8文 | 119円 | |
芝居見物 | 1桟敷 | 2,917文 | 43,215円 | |
蛇の目傘 | 1本 | 800文 | 11,852円 | |
食 べ 物 | 長命寺桜餅(注1) | 1個 | 4文 | 59円 |
握りずし | 1貫 | 8文 | 119円 | |
そば・うどん | 1杯 | 16文 | 237円 | |
日本酒 | 1合 | 20文 | 296円 | |
スイカ | 1個 | 38文 | 563円 | |
串団子 | 1本 | 4文 | 59円 | |
たばこ(注2) | 10g | 4.27文 | 63円 |
注1:長命寺の桜餅の現代の価格は一個180円
注2:現在刻みタバコは10g 360円 (税込み)
江戸の街で税金を払っていたのは地主であり、町人は税金を払っていませんでしたから、上記表の収入は手取り額となります。
これを見ると、意外と家賃が安いのに対して、ちょっと驚きは傘の値段です。
もちろん傘は何回も張り替えて繰り返し使われました。
江戸の暮らし向きを色々調べていくうちに、以外にも江戸の町民の幸福度はかなり高かったのではないかというように感じてきました。
最後に今日の本題とは関係ない写真を2枚
雨の中、保線作業お疲れ様です。
安全運行のためには、欠かすことの出来ない作業ですが、人目につくことは稀です。
その脇には、キランソウが咲いていました。
花の形はスミレのようでもありますが、これがなんとシソ科の植物とはちょっと驚きではありませんか
・・・マクロレンズがほっ、欲しい
東京の坂と橋 155 ふれあい橋・・・BBQ会場 [東京の坂と橋]
最近このブログのテーマである『坂』と『橋』の話が極端に少なくなっていて、小説を書いたり、四方山話を書いたりと、やや迷走ぎみであるが、
『blogは日記である』という観点から、つまらない話題も多くあるが、ご勘弁頂きお付き合いいただけると幸いである。
さて、今日は久々に『橋』の話題であるが、これは無理やり5月6日のBBQ開催に引っ掛けてのお知らせとなっている
ゴールデンウィーク後半戦は、大荒れの天気でスタートしたものの、連休最終日の6日は晴れ後雨・・・ええっ、何晴れ後雨とな
ウェザーニュースでは、6日は『晴れ』だが、午後にわか雨に注意とある。
気象庁の週刊天気予報では6日は『曇り時々晴れ』とあり、まぁまずまずのお天気だろう。
そのBBQ会場となるふれあい橋について取り上げてみた。
ふれあい橋は、多摩川の支流の淺川にかかる橋である。
淺川は高尾山や夕焼け小焼けの里のある恩方からの水を集めて、聖蹟桜ヶ丘付近で多摩川に合流する。
ふれあい橋は、実は正式名称ではない。
正式な名称は『万願寺歩道橋』といい、『ふれあい橋』は愛称である。
1991年(平成3年)7月に完成した自碇式つり橋で、全長148m、幅員は6mの自転車・歩行者専用橋となっている。
この橋が出来るまでは、淺川左岸に住む人たちが高幡不動駅方面に行こうとすると、上流側の高幡橋か下流側の新井橋まで大きく迂回しなければならなかった。
遠くからも非常に目立つ綺麗な橋だ。
会場への行き方は、次の通りである。
◆高幡不動駅改札口を出ると、左手に進む。
◆次の通路を進むと、下には鉄道ファンには心くすぐられる光景が広がる。
◆階段を降りると、そのまま直進!
◆この道の突き当りが、潤徳小学校だ。
なんと1873年(明治6年)に開校したというから139年の歴史のある小学校だが、現在地に移ってきたのが、1959年(昭和34年)のことであるから、明治時代の校舎が残っているということは無い。
ふれあい橋はこの校舎の裏手にあたるが、上の写真の突き当たりは左に曲がって時計回りで小学校を迂回する。
◆上の写真のとおり道なりに右にカーブすると、次の写真のように、正面に橋の支柱が見えてくる。
◆そのまま直進して土手に上がると、右手前方に橋が見える。
普段淺川は、ここを歩いて渡れる程度の水量であるが、昨夜来の大雨でかなりの濁流となっていた。
この橋を渡った左岸の橋の下辺りでやる予定。
高幡不動駅改札口からぼちぼち歩いて4~5分といったところか。
実はこの橋の北詰に隣接してスポーツ広場と公園があり、そこの利用者用の無料駐車場があるので、公園の利用者は停められるが、空きスペースがあるかどうかはわからない。
まぁ、お金はかかるが、高幡不動駅に隣接した京王SCは自走式の立体駐車場になっていて、満杯になることはまずないので、そちらの方が無難だろう。
次の写真は京王SCのビル。
次の写真中央の舗装してあるところが駐車場で、その奥の森が公園。
この駐車場に隣接するスポーツ広場には仮設トイレがあるが、当日グランドで何かやって入れは使えるだろう。
万が一使えないときは、高幡不動駅ビルの2階と3階に綺麗なシャワートイレがある。
高幡不動といえば、お土産はなんといっても『高幡まんじゅう』だ。
高幡不動にはケーキ屋さんが3件ある。
1件目は京王SCビルの中に入っている銀座コージーコーナーで、高くて普通の味だ。
2件目は駅前ロータリー東側にあるマロニエ。
ここは、安くて美味しい。
3件目は、グルメ雑誌でも時々紹介されるPatisserie du Chef FUJIU だ。
ここは高くて美味しい。
今日はここでケーキを調達!!
中々の美味である。
さて、最後になったが改めての告知をしたい。
『駅員3 マル秘バーベーキューテクニック大公開パーティー』
1.日 時 5月6日 日曜日
午前11時~15時
2.場 所 高幡不動駅徒歩5分 ふれあい橋たもと (地図参照)
3.会 費 大人1000円 子供500円 ただし飲み物持参(高幡不動駅に隣接して京王ストアーがあります)
4.内 容 ①炭の火の付け方
②美味しい焼き方のコツ
③アウトドアでの美味しいご飯の炊き方
④ダッジオーブンのイロハ
5.その他 終了後は高幡不動尊で撮影会などいかがでしょうか。
参加ご希望の方は、このブログの左上にあるメールフォームからご連絡ください。
既に参加表明されておられる方々には5月4日中にメールにてご連絡いたします。
東京の坂と橋 四方山話54 江戸の町2 町人の暮らし向き2 [東京の坂と橋]
いよいよ明日からゴールデンウィーンのスタートですね。
ここのところ忙しく、ついに今朝など丸ノ内線に新宿でいつもどおりに乗って、霞ヶ関で降りるところ、ふと気がつくと銀座でした
でも、明日からはカレンダーどおりとはいえゴールデンウィークに突入です。
私は明日から3日間(28日、29日、30日)はナイアガラに乗務しますので、ご来店時には厨房にいる駅員3に一声おかけください。
開店から14時過ぎまでは混雑が予想されますので、ゆっくりご来店になるのであれば15時以降がお勧めです。
今日は帰り道の日比谷公園の中で、今季初の出会いがありました。
すかさず携帯を向けたのですが上手く撮れず、設定を直している間に逃げてしまいました。
さて今日は、イントラネットのコラムに書いた『休日』の話題をブログ用に書き下ろしました。
一体誰が和製英語である『ゴールデンウィーク』という言葉を使い始めたのでしょう?
日本を『黄金の国ジパング』と紹介したマルコポーロがこの時期に日本にやって来たからだとか、ロッキー山脈の雪解け水で砂金がたくさん採れるので、この時期の人々は砂金採りに出かけてしまい、街は休日状態になってしまったからだとか諸説紛々、まことしやかな起源が言われています。
しかし、『ゴールデンウィーク』の起源は第二次世界大戦後に始まったことです。
1951年(昭和26年・・・おっと我が家のWillys M38君が生まれた年です)に、大映の専務が使った映画の宣伝用語で、これが翌年以降にあっという間に広まって言ったというのが、真相です。
1951年の春に公開された獅子文六原作の『自由学校』が正月映画やお盆映画の興行成績を抜いて大映創設以来の大ヒットとなったことから、この時期に多くの人に映画を見てもらおうと考えられたのだそうです。
『ゴールデン』の由来は、当時の娯楽の王様であったラジオの一日のうち一番視聴率の高い時間帯を『ゴールデンタイム』と呼んだことからつけられました。
NHKでは『ゴールデンウィーク』は映画宣伝用語であったことから、ニュースなどでは『大型連休』と言っていました。
『ゴールデンウィーク』と言うようになったのは最近のこととか。
和製英語でありながら、今では日本人観光客の多い海外の観光地でも『ゴールデンウィーク』は通じるところもあるようです。
現在の『七曜週休制(日曜日が休日で土曜日が半休)』が採用されたのは、明治に入ってからのことです。
それでは、江戸時代の『休日』はどのようになっていたのでしょうか。
まず武士は『三勤一休』といって、三日勤務すると一日お休みだったようです。
商家の丁稚は、年に1月16日と7月16日の二回お休みをいただけたそうですが、これを『藪入り』といいました。
武家に奉公に揚がっている女性は、年に7日間ほど『宿下がり』といってまとまったお休みを頂いたようです。
商家や職人は、毎月『1日、15日、28日』を休んだようです。
それ以外は、五節句と、年末年始、お盆の時期を休んだようです。
農家はというと江戸時代の農民が領主に休みを届け出た記録が残っていて、それによると年間32日の休みがありました。
ところが、ある農民の記録した日記からは年間82日休んだことが読み取れます。
・・・ということは、建前と本音があったということでしょうか。
一日の労働時間は、朝8時から夕方18時までで、10時と14時にそれぞれ30分の中休みと、正午にお昼休みが1時間あったようですから、休み時間を除くと8時間労働ということになります。
私は・・・朝6時に出勤して終わるのは・・・
・・・なんと、休み時間を除いても江戸時代の人の倍以上働いてる
東京の坂と橋 四方山話53 廃墟となった学生寮 [東京の坂と橋]
4月17日、都心近くのある施設を見学させていただいた。
京都には台湾からの留学生のための『光華寮』がある・・・というかあったが、実は東京にも同じような寮が存在した。
光華寮は数年前に京都出張の折、概観を携帯の写真に収めてきたのだが、残念ながら整理が悪くすぐには見つからない。
また機会があれば、掲載したい。
東京のものは1927年(昭和2年)、台湾に在住する日本人子弟や、台湾からの留学生の寄宿舎として、都心に近い某所に旧台湾総督府の外郭団体である『学祖財団』が日本帝国から土地を借りて『清華寮』を建設した。
上の写真のような風景の都心に近い閑静な住宅街の高台に、その建物は異彩を放っていた。
次の写真の坂道は、過去の私の『坂』でも取り上げているので、この場所にご記憶のかたもいらっしゃるかと思う。
坂道の左手に、上に続く石の階段が見えている。
この階段を上りきると、朽ち果てた門が姿を現す。
敷地から門を振り返るとここが都心に近い閑静な住宅街の中とはとても思えない。
日本の敗戦により台湾総督府が消滅した後も、台湾人(中華民国)の入居が続いたが、いつしか中華人民共和国の留学生なども居住するようになった。
居住者達は中華民国系、中華人民共和国系それぞれが自治組織を作って管理を始めたが、両者は平穏共存していた。
しかし、建物の所有者が不明確であり、入居者がさらに第三者に転貸するなど、混乱していたようだ。
1960年(昭和35年)に設立されたある財団法人が1978年(昭和53年)に学祖財団の理事から寄付を受けたとして所有権を主張して2003年(平成15年)に提訴し2006年(平成18年)勝訴。
ところが2008年1月7日、住民のタバコの火の不始末から出火し寮の7割が焼けて、中国人母娘2人が亡くなった。
焼け爛れた跡など生々しい写真は割愛させていただいた。
財務省は「借地契約は学祖財団から奨学会には移っていない。」として、土地の明け渡し訴訟を提起する構えだ。
建物の所有権は、中華民国なのか中華人民共和国のものなのか、はたまた日本のものなのか、その帰属については外交問題になることも考えられる。
またこの寮の元住民達は奨学会への建物の譲渡は、偽造されたものだとして争う構だ。
本来崇高な目的で建設された建物が、戦争と政治の狭間でもみくちゃにされ、朽ち果てるに任されている様子を見るのは忍びない。
また、火災で亡くなられた方には謹んでご冥福を祈りたい。
玄関の上にはこんなオブジェが風雨にさらされていた。
玄関脇には、誰も手入れをしないのに『スノーフレーク』だろうか、健気に花をつけていた。
東京の坂と橋 四方山話52 江戸の町2 町人の暮らし向き [東京の坂と橋]
前回から江戸の町について、とあるイントラ上に連載しているコラムに掲載したものについて、blog用に改めて書き下ろしている。
今日は、江戸の町に暮す町人の暮らし向きがどんなものだったのか見てみよう。
江戸の町はその70%が武家地で、寺社地と町人地がそれぞれ15%となっていたといわれている。
ところが人口の比率でいくと、武家が50%、町人が50%であったことから、町人はかなり密集して暮らしていたと推測される。
時代劇でよく出てくる町人の暮す『長屋』は、上水井戸(神田上水や、玉川上水で配水された上水道の水をくみ上げる場所)を中心に、長屋が配されていた。
上水井戸の脇には共同洗濯場があり、長屋の外れに共同トイレがあったという。
町人が暮す一般的な長屋の広さは、間口が2.7m(9尺)、奥行きが3.6m(2間)、面積9.7㎡(3坪=6畳間)という狭さだった。
戸を開けて中に入ると、1.5畳ほどの土間があり、竃があった。
土間に続き4畳半ほどの畳の部屋があった。
竃の燃料は薪で、暖房などは火鉢に炭をおこしていたようだ。
夏暑ければ、外に打ち水をして気温を下げたという。
夜になると、明かりは菜種油を燃やして灯りとしていた。
ろうそくは高価なもので、店を構えるような商家でなければ買えなかったようだ。
庶民の食生活は、きわめて質素で、米、野菜が中心。
鶏肉や、鶏卵は貴重な蛋白源だったようだ。
行商が売りに来る魚などは、高級食材だったが、一方『初鰹』などの季節の初物に大枚はたいて味わう贅沢も江戸時代に始まったようだ。
内風呂は火災予防の観点から大身の武家屋敷に限られ、人々は町の銭湯に通った。
現在の浴槽に浸かるという入浴スタイルは、江戸中期頃に確立されたようだ。
銭湯は、庶民の娯楽、社交場としての機能があり、落語なども行なわれていたという。
男湯と女湯を設けるのは、経営的に困難で、男女混浴であったようだ。
幕府は、何度か混浴を禁止したが、守られなかった。
・・・つづく
東京の坂と橋 四方山話52 江戸の町1 江戸の範囲 [東京の坂と橋]
9月からあるイントラネットに掲載しているコラムは、順調にアクセス数を伸ばしてきて、ついに2月にはイントラという閉鎖された環境ではあるが、検索ランキング1位となるまでに定着してきました。
最近は江戸時代のことを書き綴っていますが、結構資料集めなど調べ物に時間とお金がかかっています。
そんな中、江戸時代から現代に至るごみ処理の問題を取り上げようとしたら、まずは江戸の町の町人の暮らしぶりを知らないと理解できないと思いそこから書き始めたら、今度は、「江戸の町」って、何処から何処までのことをいうのか、その定義をしないと話は前に進まず、裾野がどんどん広がってしまいました。
せっかく色々調べてコラムを書いているので、blogにも新たに書き下ろしたいと思います。
よく『大江戸八百八町』と江戸の町の広さを慣用句的に使うが、実際の広さ、町の数はいかほどだったのだろうか?
徳川家康が江戸に入城したのは1590年(天正18年)のことであるが、当時は鄙びた漁村であったことは既にお話したとおりである。
そこから江戸の町は発展を始め、慶長から寛永年間(1600年前後)には300町、二里四方と言われた。
その後、海洲部の埋め立て、本所・深川の開発、溜池、小日向の低湿地の埋め立てなどにより江戸の町は発展を続けた。
現代の東京につながる江戸の町の原型が出来たのは、17世紀も後半の延宝年間のことである。
この頃になると、江戸の町は674町と家康の頃のほぼ倍の数となり、広さも四里四方といわれるようになった。
その後も発展を続け18世紀も半ばの延享年間には1678町となり、実に808町の倍を越えるまでに発展した。
それでは行政区画としての江戸の町の範囲はどうなっていたのだろうか。
江戸の町の範囲は様々な考え方があり、幕府の統一見解が出されるのは、19世紀の幕末近くまで待たなければならない。
統一見解が出されるまでは、
1.町奉行の支配地
2.寺社勧化場 (寺社が寄付を募ることを許された地域)
3.江戸払い御構場所 (江戸払いの刑を受けたものが立ち入ってはいけない地域・・・千住・板橋・品川・内藤新宿)
4.札懸場の対象範囲
と、幕府の行政系統によって異なっていた。
1818年(文政元年)に幕府は、絵図に朱線を引いて、江戸御府内を確定した。
その範囲は、
東・・・中川まで
西・・・神田上水まで
南・・・南品川町を含む目黒川辺りまで
北・・・荒川、石神井川下流まで
とされていて、これは寺社勧化場、札懸場とほぼ一致する。
現代の行政区でいうと
千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区、文京区、台東区、墨田区、江東区、豊島区、荒川区、北区の一部、板橋区の一部、品川区の一部、目黒区の一部
となる。
・・・つづく
東京の坂と橋 番外編114 佐久甲州街道百観音 [東京の坂と橋]
先日北八ヶ岳に行く途中、面白いものを発見した。
東京からは中央自動車道を須玉までくだり、国道141号線を北上する。
この国道141号線は、昔の佐久甲州街道にほぼ重なる。
佐久甲州街道は古来甲州往還と呼ばれ、甲州街道韮崎から須玉を経て平沢峠を越え信濃に入る。
八ヶ岳連山の東山麓を、千曲川沿いに中山道岩村田に、更に北上すれば北国街道小諸に至る道だった。
中世以来東海道筋の人々の善光寺参りの道であり、逆に富士講や伊勢講の旅人が行き交う高原の道だ。
また、茶・塩など食料から材木を運ぶ物資輸送の大切な道でもあった。
さらに、戦国時代には、武田信玄の信濃攻略の極めて重要な軍用道路として利用されたりもした。
次の地図は、国道141号線をトレースしたところ。
次の写真は、道路より高いところから見た写真だが、何かお気づきのことはないだろうか?
これでお判りの方は素晴らしい。
もう少し近づいてみよう。
この道は、年に数回は通る道だが、今回須玉インターを降りて北上すると、道の駅『南きよさと』の手前の山側の斜面が今まで杉林だったのが、伐採されて丸坊主になっているところがあった。
すると、一瞬だったが丸坊主になっている斜面に巨大な庚申塔のようなものを発見。
「えっ、なんだあれ。」一瞬であったのと、スカウトたちを乗せてしらびそ小屋に向かっていたこともあり、帰り道に寄ることにした。
邪魔にならないところに車をとめて斜面を登ってみると、それはあった。
近づいてみると、かなり大きく立派だ。
百観音と印された非常に大きな石塔だ。
向かって右側には建立された年月がきざまれてる。
嘉永3年9月吉日とある。
嘉永3年といえば1850年、今から162年前ということになる。
幕末に近い嘉永年間は、ペリー提督率いる黒船の来航があったり、歴史に残るような大地震が続き、まさに世の中は大激震の時代だった。
そんな中、箕輪村の有志がこの百観音を建立したようだ。
石仏の左側に回ると、発起人として三人の名前が記されている。
百観音とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の総称で、全て回ると百観音となる。
江戸時代、これら全てを回るのは並大抵のことではなかっただろう。
発願人が三人いることから、三人で手分けして回ったのだろうか?
いずれにしても百観音の巡礼を達成しての石塔なのだろう。
ただ残念なことに、手入れをされている形跡はなにもない。
ここにお参りする人がいれば、自然と道はできて石塔の前など踏み固められているだろう。
ところが、石塔の前は落ち葉が積もってふかふかの状態で、地元の方々がお参りしていた形跡は何も無い。
石塔の上部には三面の菩薩が彫られている。
東京の坂と橋 番外編113 久我山道標付庚申塔 [東京の坂と橋]
今日は、先日M38が退院するときに通った久我山の庚申塔についてご紹介したい。
現在京王井の頭線久我山駅の南側を東西に通る『人見街道』は、古くより開かれた道で、武蔵野国の国府のあった府中と、杉並大宮八幡宮を結ぶ道で、『大宮路』とも『武蔵野路』とも呼ばれていた。
『人見街道』の『人見』とは、平安、鎌倉、室町時代に武蔵野国を中心とした同族的武士集団の武蔵七党のうちの『猪俣党』の一族である『人見氏』が府中市北東部に居を構え、辺り一帯を『人見村』といったことから、街道の名前が付いたようだ。
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上の地図の①の地点は東から人見街道を進んでくると、二股に道が分かれる袂に庚申塔が置かれている。
近寄ってみると、いまでもしっかり守り伝えられていることが判る。
杉並区教育委員会の資料によれば、昔からこの位置に建立され移転されたことは無いという。
1722年(享保7年)の建立で、杉並区内最古の庚申塔である。
上には青面金剛、下には三猿が配されているところは普通の庚申塔であるが、この庚申塔には珍しい点がある。
向かって左の側面には、『これよりひだりふちう三(み)ち』、右には『これよりみぎいのかしら三(み)ち』と印されている。
そう、道標の役割を果たしていたのだ。
おそらく、井の頭弁才天に詣でる者たちの道標となっていたのだろう。
1000年を越えて道筋が残っているというのは、素晴らしいことだ。
東京の坂と橋 番外編112 多摩の石仏を巡る22 東福寺3 [東京の坂と橋]
さて、昨日ご紹介した三体のお地蔵さまは、このように並んでいる。
今日は1795年(寛政7年)に、唐木田在横倉与兵衛の寄進による刻経塔(宝篋印塔)をご紹介しよう。
この刻経塔には、このように凡字でお経が刻まれているが、私にはとんと分からない。
多摩市の資料によると、この刻経塔には「『紅月』という珍しい呼び名の月名が刻まれている。」とあるが、どれがそうなのかよく分からなかった。
次の写真は、以前ご紹介した吉祥印の刻経塔であるが、ほぼ同時期に建立されたため、非常に似通っている。
この吉祥院の刻経塔は、東福寺の刻経塔が建立された1年後の1796年(寛政8年)に建立されている。
吉祥院の記事でも述べたように、宝篋印塔はもとは密教系の石塔であるが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになる。
滅罪や延命などの利益から、追善供養、逆修供養のために建てられたものだ。
東福寺の刻経塔も、吉祥院の刻経塔も見事な造りで、200年を経て風雨にさらされてきたとは思えないくらいの良い状態である。
東京の坂と橋 番外編111 多摩の石仏を巡る21 東福寺2 [東京の坂と橋]
東福寺の山門を入ると、正面が庫裏で、その右手に本堂がある。
さらに、その右手に古い石仏が安置されているが、今日はそのうちの三体をご紹介しよう。
まずは、真ん中にある子抱地蔵である。
丸彫座像のお地蔵さまで、柔和なお顔のお地蔵さまのひざには子供が乗っている。
風化が激しく、多摩市の資料などを見ても建立年月日は『不詳』とある。
実はこのお地蔵様は三界萬霊塔の上に載っている。
詳細は定かではないが、下の塔の部分と上の地蔵菩薩とは別々に建立されたものが、あるときこのように塔の上に地蔵菩薩を載せたのではないかと思う。
この三界萬霊塔は、1841年(天保12年)の建立である。
仏教で三界とは、『欲界』、『色界』、『無色界』のことをさす。
つまり三界とは、凡夫の住むこの世のことだ。
萬霊とは、『欲、色、無色界の有情、無情の精霊』のことをさす。
つまり、この三界萬霊塔はこの世の中のあらゆる『命』を供養したものといえるだろう。
この子抱地蔵の左隣にあるのが、次の写真の1809年(文化6年)に建立された地蔵菩薩だ。
右隣にあるのは、次の写真の1803年(享和3年)に建立された地蔵菩薩だ。
建立されて以来200年の歳月に刻まれて、お顔ははっきりしない。
東京の坂と橋 四方山話51 東福寺 [東京の坂と橋]
東福寺は、先日白山神社のところで触れたとおり、白山神社の別当寺(神仏習合が認められていた江戸時代以前に神社を管理する寺として創建されたもの)ですが、由来を色々調べてみるとちょっと面白いことが分かったので、今回は東福寺の由来をまとめてみた。
青木山東福寺は、高幡不動金剛寺の末寺で、不動明王を本尊としている。
また、1823年(文政6年)に設けられた多摩八十八箇所霊場の第十三番札所としても知られている。
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創建は明らかではないが、中世より慶長年間(1596年~1610年)までは修験坊として落合村上落合堀合堰にあったが、1618年(元和4年)に現在地に移転し白山神社の別当寺として創建されたと思われる。
江戸時代は、徳川幕府から御朱印十石を与えられ大いに繁栄したもの、明治期に入ると神仏分離令をうけて白山神社との関係が絶たれ、第二次世界大戦後の農地解放により多くの土地を失った。
加えて1970年(昭和45年)に本堂、庫裏などを全焼して失ってしまったが、その後徐々に復興を果たし、現在に至っている。
そんな歴史のある寺院に古い石仏や刻経塔があるので、次回から数度にわたってご紹介したい。
東京の坂と橋 四方山話50 白山神社 [東京の坂と橋]
今回多摩市落合にある白山神社をご紹介したが、多摩市内には連光寺にも白山神社がある。
全国各地に白山神社は2000社以上分布し、東京都文京区では、白山神社が地名となり都営三田線には「白山」という駅まである。
これら全国各地にある白山神社は、岐阜県、石川県、福井県の三県にまたがってそびえる白山を霊山信仰の聖地として崇められたことに始まる。
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白山への信仰は、やがて山頂に奥宮が設けられ、修験者のための登山道が開かれる。
その奥宮へ登拝する拠点として置かれたのが、全国の白山神社の総本宮である白山比・神社(シラヤマヒメジンジャ)だ。
同社のホームページによると、紀元前91年(崇神7年)に創建されたとあるが、文献に登場するのは853年(仁寿3年)に従三位に叙せられたという記録が最初のようだ。
自然崇拝の対象である山が、山岳修行や修験の霊場へと変わっていくのは平安時代中期(9世紀)と考えると、この頃に創建されたと考えられるのではないだろうか。
祭神は白山比・神(菊理媛(きくりひめ)神)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)である。
残念ながらこの神社に行ったことが無いので、写真はない。
さて、次回は多摩市落合の白山神社の別当寺である東福寺からその境内にある石仏を紹介したい。
東京の坂と橋 番外編110 多摩の石仏を巡る20 白山神社2 [東京の坂と橋]
前回、ここ白山神社の石坂供養塔をご紹介させていただいたが、白山神社にはまだまだ面白いものがある。
この狛犬は、遠く江戸の世から時空を飛び越えてやってきた・・・力強さが伺える。
今日ご紹介する次の写真の『土公神』は、この『多摩の石仏を巡る』シリーズ初の登場となる。
この土公神は、1856年(安政3年)に大風で倒れた天道松を売ったお金に、村人達が出し合った資金を加えて、1858年(安政5年)に建立されたといわれている。
当初は白山神社の裏山の頂上に安置されていたものが、明治に入って土地が売られてしまったため、倒れた天道松の跡に移築された。
さらに昭和50年代の多摩ニュータウン開発により、本殿左側に移され現在に至っている。
この土公神は、「どこうしん」、或いは「どくしん」と読み、陰陽道における土を掌る神様だ。
季節によって遊行するとされていて、
春はかまど
夏は門
秋は井戸
冬は庭
に宿るとされている。
宿っている最中に宿っている場所を工事などしたりすると、土公神の怒りをかい祟りがあるといわれている。
本殿右手奥には、こんな石祠がある。
この石祠は、1794年(寛政6年)に建立された後朽ち果てかけていたものを、1983年(昭和58年)にニュータウンの工事とともに現在地に移転復元された。
東京の坂と橋 154 多摩の石仏を巡る19 白山神社の石坂1 [東京の坂と橋]
東京の坂と橋と題して、階段を取り上げるのは文京区にある『おばけ階段』以来2回目のことである。
⇒おばけ階段はこちらからどうぞ
このおばけ階段は下から上るときは40段、上から下るときは39段という不思議な階段だ。
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さて、今回は多摩市落合にある白山神社の正面階段である。
蹴上げ(階段の一段の高さ)はそんなに急ではないが、踏み面(階段の足を乗せる部分)が現代人からしたらちょっと浅く、上から下を見下ろすと少し心もとない。
この階段を上りつめると背景にベネッセのビルを抱いた本殿が現れる。
この白山神社は、残された棟札から1618年(元和4年)に八王子代官小宮山介為などによって加賀の白山大権現から勧請されたことが分かっている。
ところが1875年(明治8年)に出土した十一面観音像を含む神像7体の成立は平安・鎌倉期とされ、古くから神前で五穀豊穣、家運隆昌、子孫繁栄が祈願されてきたのだろう。
本殿は、拝殿と本殿が一体化した権現造りであるが、多摩ニュータウン開発のため数メートル移動する前は、拝殿と本殿は分かれて建っていた。
今回何故この石段を『坂』として取り上げたかというと、多摩市郷土史料館の史料の中にここ白山神社に『石坂供養塔』があると記されていたからである。
『石橋供養塔』というのはよく目にするが、『石坂供養塔』というのは初めてである。
これは、是非行かねばと11月12日にここを訪れた。
しかしいくら探しても見つからない。
残念ながら宮司さんは普段はいらっしゃらない神社であるが、七五三だからだろうか宮司さんと氏子さんたちがいらっしゃったので伺ったところ、「聞いたことが無い。」、「知らない。」という回答だった。
小一時間探したのだが見つからない。
あきらめて次の目的地である東福寺に向かおうとしたところ、あーーー発見!!!!!!!
皆さん、次の写真の中にその『石坂供養塔』があるのがお判りだろうか?
まずは、石段側から本殿を見たところだ。
そして、本殿から石段を見下ろしてみた。
こうやって写真でみると、すぐお判りだと思う。
『宝暦二年』・・・1752年建立・・・と刻まれた角柱の供養塔は、本殿向かって左手の最上段に立っていた。この石段は260年の時を数えて、人々を見守り続けてきたのだろうか!?
そして、右手には次のような角柱に文字が刻まれている。
この神社には、まだまだ古いものがあるが、それは次回に続く・・・
東京の坂と橋 四方山話49 久しぶりの玉川上水Walking [東京の坂と橋]
ちゃんとした記事は、いろいろ調べることもあり、後日順次アップしていくとして、今日も写真の羅列です。
昨日は撮り鉄の写真を取り上げましたが、もう一枚
逆光でしたが、事前に山勘で露出とシャツタースピードを決めて撮ったら、まずまずではなかったかと思います(自画自賛)
今回取水堰から歩いてきて、初めて野仏を目にしました。
次の写真は、1735年(享保20年)の庚申塔です。
次の写真は、1792年(寛政4年)の石橋供養塔です。
途中電車だけでなく、こんなものを見かけると「パチリ」とやりながら3時間ほどのウォーキングとなりました。
もう少し歩きたかったのですが、デスクワークも片付けなければならず、ここら辺であきらめて帰途へとつきます。
多摩都市モノレールから眺めた夕焼けは絶景でした。