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東京の坂と橋 四方山話68 黒電話 [東京の坂と橋]

1878年(明治11年)国産1号電話機が登場しました。
ところが性能が悪かったため、わずか5年で製造中止となります。

その後1896年(明治29年)にガワーベル電話機を経て国産のデルビル磁石式電話機が登場します。
このデルビル磁石式電話機は、第一世代の電話機ですが、第二世代の共電式、第三世代の自動式と平行して昭和40年代まで使われます。

4電話機.jpg 

上の写真は、以前ご紹介した我が家のデルビル磁石式電話機ですが、沖電気製のプレートが付いているものの、製造年月を示すものは何もありません。
おそらく明治後期のものと推察されます。

その後1909年(明治42年)に第二世代の共電式の電話回線導入とともに、2号共電式電話機が登場します。

さらに1927年(昭和2年)になると第三世代の電話として自動式が導入されます。
これにより交換手を呼び出すことなく、相手を呼び出すことができる次代に突入しました。

電話機は、2号共電式電話機を改良したものが使われていました。

その後1933年(昭和8年)になると、いわゆる『黒電話』が登場します。
3号自動式卓上電話機と呼ばれた電話機は、今の電話の形の基礎となりました。

送話口と受話口が一体となり、筐体はベークライト製で、その後戦中、戦後の30年以上にわたって使用されました。

12 3号電話機.jpg

我が家にあるこの3号自動式卓上電話機は、なんと現役です。
ただ、現役に耐えられるように、受話器と本体を結ぶケーブルは、その後の600形のものに換装されています。

これは富士通信製ですが、製造年月は不明です。
ただ、受話器を置く台とダイヤの形から、戦前のものと推察されます。

11 3号電話機.jpg

呼び出しのベルの音は後の4号や600形に比べて小さく、実に可愛らしい音がします。
ただ残念ながら、音質はやや落ちます。

1950年(昭和25年)になると、4号自動式卓上電話機が登場します。
性能、デザインとも世界水準を超えるすばらしいもので、「ハイファイ電話機」ともよばれ、我が家では普通に使用しています。

14 4号電話機.jpg

ダイヤルには日立のマークが入っていて、ダイヤルの下には日立のロゴが入っています。
ダイヤルの下のロゴは、各製造メーカーのロゴが入っているものと、電電公社のマークの入っているものがあります。

13 4号電話機.jpg

ダイヤルの中心部の注意書きが時代を感じさせますね。

1962年(昭和37年)には600形自動式卓上電話機が登場します。
この電話機でアナログ式の電話としては完成の域に達したと言われています。

いまでもこの電話機を使用しているご家庭があるのではないでしょうか。
1971年(昭和46年)になると600形に黒だけではなく、ホワイト、グレー、グリーンの三色が登場します。

しかしながら自分の好みの電話機を自由に選べるようになるのは、1985年(昭和60年)まで待たなければなりません。

3号も4号も停電になっても電話線から供給される電気で動くため、電話回線が生きている限り通話ができます。

最後に先日もご紹介した我が家の赤電話をご紹介しましょう。

5赤電話.jpg


東京の坂と橋 番外編134 長坂橋の笠地蔵 [東京の坂と橋]

多摩川の支流に乞田川という一級河川があります。
 

小田急多摩線唐木田駅近くから流れ出ると、多摩ニュータウンの中心部を流れて、関戸橋のところで多摩川に流れ込んでいます。

乞田川は、別名長坂川とも呼ばれ、唐木田の源流に近いところを通っていた八王子往還には長坂橋という橋が架かっていました。

現在は、ニュータウン開発により、鶴牧西公園のところから暗渠になってしまい、現在では橋はありません。

15身代わり地蔵.jpg

この暗渠をたどって上っていくと、不思議なものが目に入ってきます。

11身代わり地蔵.jpg 

1700年(元禄13年)、長坂橋の袂にお地蔵さまが建立されました。

そのお地蔵さまをお守りするようにツゲの木があたかも笠のように被いたことから、何時の頃からか『長坂橋の笠地蔵』と呼ばれるようになりました。

12身代わり地蔵.jpg 

また、身代わり地蔵とも子育て地蔵とも呼ばれて、古来人々の信仰を集めてきました。
なんとも純朴なお顔をしていると思いませんか!?

13身代わり地蔵.jpg

お顔など風化の目立つ部分もありますが、衣のレリーフははっきりしていて、全体的にはいい状態を保っているようです。

16身代わり地蔵.jpg 

ニュータウン開発により、ほとんどのお地蔵さまや、石仏、石塔が移動してしまいましたが、この長坂橋の笠地蔵は、一時仮移設されたものの元の位置に戻り、300年以上も変わらぬ姿を見せてくれています。


タグ:石仏

東京の坂と橋 四方山話67 公衆電話・・・電信電話記念日 [東京の坂と橋]

3デビル磁石式端子.jpg日本で電話事業が始まったのは、1890年(明治23年)のことである。
東京と横浜に電話局が設置されると、自宅や会社に電話機が無い人のために、公衆電話が設置された。

電話局以外に公衆電話が設置されたのは、1900年(明治33年)上野駅の駅長室前と新橋駅の中等待合室前に設置されたのが、初である。

同年には、京橋の屋外に六角錐型の木造の電話ボックスの中に設置された公衆電話が、屋外初である。

当初の公衆電話の通話料金は、5分間15銭であったという。
当時米10kgが80銭くらいであったというから、現代に引きなおすと、米10kgを3000円とすると、560円程度となる。
この値段が高すぎて利用者が伸び悩んだため、程なくして5銭に値下げされた。
現代人にしてみれば、それでもちょっとお高い水準だ。

電話事業が始まった当初は、交換手を呼び出して番号を告げ、繋いでもらう方式であったが、1926年(大正15年)になると、自動交換機が導入されてダイヤル式通話が始まる。

右上の写真と次の写真は、我が家のデビル磁石式電話だ。
下の写真は、電話機のふたを開けたところ。
大きなU磁石がひっくり返って3つ入っている。

4デビル磁石式端子.jpg

2デビル磁石式端子.jpg

5赤電話.jpg交換手を呼び出す方式は、なんと1979年(昭和54年)まで続いた。

家庭に電話が普及する以前は、電話のある家にお願いして、「○○様方呼び出し」と称して人の家の電話番号を使わせてもらったりしていた。 

電話をかけるときは、「○○様ですか。あの◇◇さんを呼び出していただきたいのですが。」とお願いしたものだ。

またかけるときも公衆電話まで行かなくても電話のある家にお邪魔して、市内通話だったら10円を置いてお借りした。
(昔市内通話は、何分かけても10円だった。)

また市外通話であれば、交換手を呼び出して繋いでもらい、相手が出ると話しをする。

通話が終わって受話器を置くと、交換手から電話がかかってきて、「ただいまの料金は○○円でした。」と告げられ、その金額を置いてくるといったような習慣が出来上がっていた。

戦後公衆電話ボックスを増設するには経費などの問題があり、商店などに委託型して設置する公衆電話が、1951年(昭和26年)に登場した。

しかし料金などのトラブルが絶えず、1955年(昭和30年)(資料によっては赤電話は1954年(昭和29年)に導入となっている)に硬貨を投入して通話する赤電話(通称ダルマ)が登場した。
しかしダイヤル市外通話は出来なかった。

1961年(昭和36年)になると、ダイヤル市外通話が可能な大型の赤電話が登場するが、しばらくの間は、ダイヤル市外通話ができない赤電話も並存した。

上の写真の赤電話には、胴体の部分に『ダイヤル次回通話もかかります』と表示されている。

今回我が家にお迎えした赤電話は、1971年(昭和46年)10月 田村電機製の『670-A1』で、もちろんダイヤル市外通話可能である。

6赤電話.jpg

7赤電話.jpg

8赤電話.jpg

実に見ているだけで、色々と語りかけてくる表情豊かで不思議な電話だ。
あるときは、嬉しい話を、またあるときは、悲しい話をこの電話機は伝えてきた。

その時の重みに何時しか生命が宿ったようだ。


タグ:公衆電話
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東京の坂と橋 番外編133 昭和34年 東京路線図(交通案内図) [東京の坂と橋]

今日は朝からボーイの会議でした。
まだまだ報告書作りなどやること盛りだくさんなので、今日も私のコレクションをご紹介して終わりたいと思います。

今日ご紹介するのは、1959年(昭和34年)当時の東京の交通路線図です。
今は無き第一銀行・・・現在は第一勧業銀行を経てみずほ銀行・・・の頒布品で、東京近郊の支店を併記した交通路線図です。

東京地図0.jpg

第一銀行のシンボルマークは、ダブルスターだったんですね。
そして、第一銀行のロゴがなんとも可愛らしい文字で描かれています。

今から54年も前のものなんですね・・・というか幸い50年を超えているので、アップさせていただきます。

まず表は、『東京交通案内図』です。
北から西にかけては山手線、東は荒川の範囲が描かれています。

東京地図6.jpg

地下鉄は、銀座線と丸の内線しか描かれていません。
バス路線は載っていませんが、都電とトロリーバスの路線が描かれていて、網の目のように走り回っていたことがわかります。

大手町に『第一銀行本店』が記されていますが、ここには昭和56年まで、大理石製のエンタシスの柱が並ぶ、壮麗な建物が建っていました。

勝鬨橋が跳ね上がっていますね。
そこに向けて、貨物船が通過するようです。

そして、勝鬨橋のすぐ上流に『佃の渡し』があります。
乗ってみたかったなぁ・・・・

裏面にいくと、『東京近郊交通案内図』となっていて、西は大月、北は沼田から桐生、佐野、栃木、宇都宮、東は水戸、成田まで描かれています。

東京地図2.jpg

これだけ広範囲にカバーされていると、もう廃止されている路線がいくつか描かれています。
たとえば、九十九里鉄道が東金から片貝まで描かれていますね。

東京地図3.jpg 

都内でも多くの廃止路線が描かれています。

東京地図5.jpg

たとえば三鷹駅から北に伸びている旧国鉄武蔵野競技場線。
戦前中島飛行機の工場に伸びていた引込み線を利用しています。
戦後国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)が1シーズだけ本拠地にしたことがあります。

そして国分寺から東京競馬場駅までの旧国鉄下河原線(東京競馬場線)が描かれていますが、な、な、なんと赤い線(黒が国鉄、赤が私鉄)で描かれ、そこには『西武多摩湖線』として描かれているという、とんでもない間違えを発見してしまいました。

さっそく間違えを指摘しなければ・・・えっ、誰に言うの!?

さらに中央線を下ると、現在の『京王八王子駅』は『東八王子駅』、『高尾駅』は『浅川駅』と記されています。
そのほかあちこちの駅の名前が変わっていますね。

目を南に転ずると、二子玉川から砧まで東急砧線が描かれています。
この頃は未だ田園都市線が開通する前で、渋谷からオバQの愛称で親しまれた路面電車が走っていましたね。

田園都市線が計画線の時代、二子玉川から砧線を通って小田急線喜多見駅に乗り入れる計画もあったとか!?


日本石造物辞典 [東京の坂と橋]

今日の東京はお天気がめまぐるしく変化しました。

朝4時20分に起きると、東の空が茜色に染まっていましたが、全体的に雲が多くすっきりしないお天気でした。
午前8時を回ると、青空が広がり気温も見る見る上昇。
お昼過ぎには35度を超えて、先日までの暑さがぶり返した感がありました。

ところが午後も遅くなると、雷が鳴り出しゲリラ雷雨。
ニュースではあちこち落雷の被害で、東急や東海道線が止まるなど鉄道にも影響がでました。

私のすむ地元日野市でも数千世帯が停電になったようです。
幸い我が家は停電はしなかったようですが、以前にも記事にした「ガレージの怪」にあるように、コンクリートの箱の中に鎮座しているM38君が心配で、帰宅すると、早速ガレージのシャッターを開けました。

すると・・・・な、な、な、なんと、雨漏りした時用に置いておいたバケツになみなみと水がたまっているどころか、溢れて荷台はびしょびしょになっているではありませんか。

とりあえず湿気が籠もらないにシャッターを数十センチあけてあります。


さて、今日も皆様方のところに訪問仕切れず、大変申し訳ありません。

今日は仕事が終わってから、水道橋にあるボーイスカウトの日本連盟に立ち寄って、お仕事をしてきたため、遅くなってしまいました。

そこで、今日は先週購入したものの写真をアップして終わりです(^^;っっ

昨年から購入しようかどうしようか迷っていたのですが、思い切って買ってしまいました。

21石仏辞典.jpg22石仏辞典.jpg

それが、この「日本石造物辞典」です。
石仏だけでなく、石塔、板碑から、なんと狛犬まで取り上げられています。

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思ったよりグラビアのページが少なかったのですが、中にはふんだんに写真もちりばめられていて、大変見ごたえ、読みごたえのあるものです。

ページ数は、1400ページに迫らんとする分厚さで、鞄の中にいれて通勤途上で読もうなどとは考えられないボリュームです。
持った感じの重さは4~5kgはありそう。

今週末から山口で2週間野営生活を送りますが、帰宅したらじっくり読ませていただきます(^^)

 


東京の坂と橋 番外編132 CATHOLIC CHURCH OF ST.FRANCIS XAVIER [東京の坂と橋]

連休最終日も終日会議で終わってしまい、皆様方のところへの訪問が滞っている点、お許しください。
また、多くの方からここ温まるコメントありがとうございます。
今日は夕方には会議も終わり、その帰りがけに写した写真をアップします。 

 

1874年(明治7年)に、聖フランシスコザビエルを保護の聖人とする聖堂が創建された。

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1913年(大正2年)2月20日に付近で発生した火災により、聖堂は消失してしまう。

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1915年(大正4年)に煉瓦造りの聖堂が再建されるも、1923年(大正12年)の関東大震災により再び失われてしまう。

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1928年(昭和3年)に現在の聖堂が再建されると、第二次世界大戦の戦火を潜り抜け、現在までその美しい姿をみせている。

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内部は、残念ながら今日は入れなかったので、写真は無いが、天井の中心がアーチ型になって、左右には純白の円柱が立ち並ぶ、それは立派なお御堂である。

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現在のこの建物は、国の登録有形文化財に登録されている。

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東京の坂と橋 四方山話66 ほおずき [東京の坂と橋]

3ほおずき.jpgほおずき・・・漢字で書くと『鬼灯』と書く。 

ほおずきの果実を死者の霊を導く提灯に見立てて、盆棚に飾る風習があることから、『鬼灯』と書くのだろうか?

7月の上旬には日本各地でほおずき市が開かれるが、その中でも有名な浅草寺のほおずき市は、多くのソネットブロガーさんも訪れたようだ。

この浅草寺のほおずき市にお参りすると、一日お参りしただけで、四万六千日(しまんろくせんにち)お参りしたのと同じだけのご利益を受けることができるといわれている。

四万六千日というと、実に126年を超える。

私もこの御利益を得たいものだが、残念ながら仕事があって行くことができない。
そんな中、ソネットブロガーのsachiさんが車でほおずき市に出かけると聞いて、一鉢お願いした次第である。

例年のほおずき市で売られている鉢になっているほおずきは、青い実が多いが、今年は綺麗な橙色に染まった実が付いている。

子どもの頃は、この実で音を鳴らしたものだ。

こんなかわいらしい風鈴が付いていて、夏の風情を盛り立てている。

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『四万六千日』は、別名『千日詣で』、『千日参り』ともよばれ、この日に観音様にお参りすると、多くの功徳を得ることができるとされている。

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関西方面では、四万六千日は8月10日とするところが多いが、関東では7月10日とするところが多い。

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人間の生物学的な寿命は126歳といわれていることが、この『四万六千日』と一緒であることは、単なる偶然とは思えない。

『四万六千日』の由来は定かではない。
1升分の米粒が4万6000粒あることから、米1升を人間の一生にかけているとも言われている。

何はともあれ、室町時代以前から続いてきたこの『四万六千日』、日本のすばらしい伝統ではないだろうか。


東京の坂と橋 四方山話65 新日本紀行 [東京の坂と橋]

『新日本紀行』とは、1963年(昭和38年)10月7日に始まったNHK制作の、日本初の本格的な紀行番組だ。
1982年(昭和57年)3月10日まで、なんと19年近くも続いた長寿番組である。

放送開始当初は、毎週月曜日の21時00分から21時30分に放映されていたようであるが、私が見ていた頃は毎週月曜日の19時30分から20時00分までの時間帯のものだ。

小さい頃から、日本各地に暮らす人々の様子や風土が紹介されるのが好きで、毎週見るのが楽しみだったが、何時しか毎週放送内容を記録に取るようになっていた。
たぶんそのころ記録したものが屋根裏の物置を探すと出てくるものと思う。

今振り返って考えてみると、綺麗な風景をバックに「土地に根ざした人々の暮らし」にスポットライトを当てて作られていた、極めて人間味溢れた番組ではなかっただろうか。

物心ついた頃からこのような紀行番組が好きだったというのは、変な子どもだったに違いない(^^;

さて、先日家の中からこんなガイドブックが出てきた。

1万博ガイドブック.jpg

中を開くと、表紙裏には会場に見取り図が印刷されている。

2万博ガイドブック.jpg

そうそう、この大阪万博のテーマは、これだった。

3万博ガイドブック.jpg

出展パビリオンの説明のページも面白いが、それよりもっと面白いのは、広告だ。

6万博ガイドブック.jpg

この女性のお化粧は、まさに時代をあらわしているのではないだろうか!?

7万博ガイドブック.jpg

「映像の未来をひらくCanon」・・・なんとすばらしいキャッチコピーではないか。
このコピーに惹かれたわけではないが、生まれて初めて手にした一眼レフは、CanonのAE-1だった。

5万博ガイドブック.jpg

19型のカラーテレビがなんと183,000円というのは、今のテレビの価格からするとちょっとお高い・・・というより、40年前の183,000円というのは、いったいどれだの価値があったのだろうか。

物価の文化史事典を紐解くと、なんと1970年の大卒男子初任給は40,961円である。
2012年の大卒基幹職(男女別無し)の初任給は206,194円であるから、1970年の実に5倍にも達している。
いかにテレビが高価なものだったのかということがお分かりのことと思う。

新日本紀行で大阪万博の開催前に、山を切り開いて万博会場が作られていく様子を取り上げた回を見たときは、画面からほとばしり出てくる山の悲鳴に思わず目を覆ったのを覚えている。

時代の最先端をいく大型の建機が動き回って、山がどんどん切り崩されていく様子に、心痛めたものだ。

その後確か万博会場の造成から完成後までを取り上げた回もあったと記憶している。

いまでもこの新日本紀行のテーマソングを聴くと、なぜか目頭が熱くなってくる。

 

5月11日土曜日は、ナイアガラに乗務します。
よろしかったらお越しください。


タグ:新日本紀行
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東京の坂と橋 四方山話63 活断層・・・その2 間違えだった断層 《追記あり》 [東京の坂と橋]

大変ショッキング・・・私にとってだが・・・なニュースが流れた。
今日は予定を変更して、急遽そのニュースについて触れたい。

2月の一般公開で見学に行った立川断層のトレンチ(断層を確認するために掘られた溝)で見つかったものは、実は断層ではなく、工場建設の際地盤に打ち込まれたコンクリート杭の痕跡だったというのだ。

12榎トレンチ.jpg

 ⇒以前のこちらの記事をご覧ください

以下ニュースからの引用だ。

一般見学に来た土木関係者の指摘で発覚

 調査でも、横ずれ断層で動いたとみられる石のようなものが見つかり、2013年2月6日にトレンチが報道陣に向けて公開された際に、佐藤教授は

  「活断層による地層のずれが新たに見つかった」

と、成果を強調していた。ところが、その数日後に行われた一般公開で、土木関係の見学者から「人工物に見える」との指摘があり、さらに2~3メートル掘り下げて調査したところ、地層のずれや動きなど、断層と判断していた根拠を確認できなくなってしまった。

 「断層活動で動いた石」だったとされていたものは、コンクリート製の「くい」だった可能性がある。佐藤教授は3月28日に開いた会見で、

  「土木工事の経験がなく、上から挿入した可能性は考えなかった」

と釈明。

  「住民の皆様をはじめ、社会的にも情報に関して混乱を与えてしまったことをお詫びする」
  「見たいものが見えてしまった」
  「完全に催眠術にかかっていたので、分からなかった」

と、予断を持った判断を陳謝した。

 実は、調査の結果が出ない状態で一般公開が行われることは異例だが、住民の防災意識を高めることを目的に行政側が公開を急いだとされる。このことも、「公開までに一定の見解を出さなければ」(佐藤教授)と、判断を誤らせた一因になっているようだ。

 なお、立川断層が活断層だという判断自体は変わらず、引き続き警戒が求められる。

次の写真は、上が現場に掲出されていた写真、したが同じ場所を私が撮ったもの。

2断層面.jpg

コンクリート破片を断層と見誤ったのは、この写真に写っている白っぽいものだろうか。

このニュースに、

 1.杜撰な発表に批判
 2.素直に間違えを認めたことに好感

と、 二つの意見があるようだ。

軽率な発表だった点は否めないが、「いち早く情報を公開する」という姿勢には好感さえ覚えるのは、私だけだろうか!?

東日本大震災において、昔の津波の経験が形骸化した結果、堤防の海側に街が形成されていき大変な被害にあった地域もあると聞く。

何時くるかわからない地震に対して、減災対策の取り組みを広く促すという効果は十二分にあったと思う。
行政が発表を急いだのも、防災・減災に関わるものとしてその気持ちはよくわかる。

ただ、研究者として素直に間違えを認めることは好感がもてるとしても、
 「見たいものが見えてしまった」
 「催眠術にかかっていたので、わからなかった」
とは、如何なものか。

この教授は、原発の活断層を調査するメンバーの一員でもあった。
とすると、原発の設置場所の活断層調査が、「見たいものが見えてしまった」では済まされない。

危機管理の対応としては、
 1.迅速に対応した
 2.事実をきちっと伝えている
ということで、評価されるものだと思います。

勇気をもって対応していただいたことに感謝の気持ちさえ湧き起ってきます。 

そして今回の事象の評価・反省は、専門的なことは別として、
 1.軽率だった対応は否めず、「専門家・・・プロ」としての誇りをもって仕事をする(先入観、思い込みで仕事をしない)
 2.再発防止策を策定する
 3.引き続き情報の提供と研究の成果を発表することにより、失われた信頼の回復を図る
といったところでしょうか。


東京の坂と橋 番外編131 奥多摩湖ロープウェー2 [東京の坂と橋]

ロープウェーから見る奥多摩湖の景色はすばらしく、周りの山々のみどりも目に優しい。
あっという間に対岸の川野駅に到着すると、扉が開いた。

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ゴンドラから降りると、まず運転室を見学させていただいた。

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「失礼します、見学させてください。」

「ああいいよ、どうぞ。この右手にあるハンドルが万が一のときの手動ブレーキだ。
そして、この正面にある機械がロープウェーの制御板だよ。」

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「上にある細長いメーターのようなものはなんですか?」

「ああこれね、これはロープウェーが索道のどこにいるのかを表示するものだよ。
一番左が川野で、0mと表示されているね。右が三頭山口で、630mと表示されているだろう。」

「ありがとうございました。機械室も拝見させていただけますか?」

「ああ、一度運転室からでて、その脇の階段を降りてくれたまえ。」

機械室に向かうと薄暗い中に、主電動機(モーター)が部屋の中心に置かれている。

60ロープウェー.jpg

これが、このロープウェーのゴンドラを動かす心臓部だ。

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上の写真では、左に動力が伝わり、さらにケーブルをまわす大きなプーリーにつながっている。

「おや、右にもシャフトが出ていますが・・・ん、エンジンがある!」

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「ああ、これは補機だよ。万が一停電等でモーターが回らなくなったとき、このエンジンを動かして、安全にゴンドラを駅まで動かすものだよ。

エンジンには、「トヨタR型消防用エンジン」と銘板が付いていた。
室内は機械油のにおいが心地よいくらい漂っていて、ケーブルは黒光りしていた。

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「ありがとうございました。それでは失礼します。」

機械室を出てプラットフォームにもどり、出口へと向かうと、正面にはトイレがあった。

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階段を登りつめたところが改札口だ。

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ここも屋上が展望台になっているので、一度建物の外に出て展望台へと向かった。

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屋上から見る山々は、とても素晴らしい。

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「さて、そろそろもどろうか。」

再び切符を買うと、改札を入りゴンドラへと向かった。

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「おっ、こんどは『くもとり号』だ。」

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早速乗り込むと、先頭のかぶりつきに陣取った。
程なくして発車のベルが鳴ると、扉が閉められて湖の上へと滑り出した。

後ろを振り返ると、青梅街道のオレンジ色の橋が見えている。

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湖の中央に近づくにしたがって、前方からもゴンドラがやってくる。
「ん、誰か乗ってるね。カップルかな・・・
えっ、あれは・・・えっ、そんなバカな。」

なんと向こうからやってくるゴンドラに乗っていたのは、子どもの頃に別れてしまった父と母だった。
し、し、しかも異様に若い。他人のそら似か・・・いや、違う。確かに父と母だ。僕にはわかる。

何時しか窓にかぶりついて腕がちぎれるほど振っているのに、 向こうのゴンドラに乗っている父と母はまったく気がつく気配が無い。

すれ違いざま泣き叫びながら向こうのゴンドラへと手を伸ばした瞬間、身体が窓から飛び出して、湖面へ向かって落下した。

身体が軽くなって、エレベーターで降りるときのような浮遊感がなぜか心地よい。

永遠に続くと思われた落下が不意に止まった。

「おい、駅員3君、おい!」

「えっ・・・ あっ、教授・・・ ・・・・僕は・・・いったい・・・」

「いやさっきまで気持ちよさそうに寝ていたのに、急にうなされだして叫ぶから起こしたのさ。」

「えっ、寝てた・・・」

「ああ、この駐車場に車を止めると、『ちょっと疲れました。』といっていびきをかき始めたから、私はちょっとトイレに行ってきたんだよ。」

「えっ、でも教授とロープウェーに乗って対岸まで行ったじゃないですか。
オレンジ色の橋がとてもきれいで、山並みが幾重にも重なって素晴らしい景色を観たじゃないですか。」

「アッハッハ、それは君、『夢』というものだよ。」

僕は急いで車から降りると、山を見上げた。

そこには、錆だらけでとても動くとは思えないようなゴンドラと裏寂れた廃屋の駅が見えていた。

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「さっきゴンドラに乗ったのはなんだったんだろう・・・」

ふと手をポケットに入れると硬い紙が出てきた。

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なんと昭和41年11月30日の日付が捺されたロープウェーの切符だった。

                                                      完

奥多摩ロープウェー(正式名称『川野ロープウェー』)は、1962年(昭和37年)1月に開業した。

当初は東京方面からの観光客も多く賑わったようだが、両駅の標高差はわずか65cmしかなく変化に乏しいこと、さらには630m弱と短距離であったため、客足は遠のいた。

1966年(昭和41年12月1日)に「冬季休業」としたが、そのまま再開せずに1975年(昭和50年)に運行休止申請が提出された。

その後運営主体の小河内観光開発株式会社は実態が無くなり、経営責任者の消息も不明となっている。


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東京の坂と橋 番外編130 奥多摩湖ロープウェー [東京の坂と橋]

2月某日、花魁淵で手を合わせた帰りに、奥多摩湖にかかるロープウェーに乗って空中散歩したいということになった。

青梅街道を奥多摩方面に向かって東進すると、深山橋を渡って奥多摩周遊道路へと入ると、すぐ左手の川野駐車場へと乗り入れた。

ロープウェーの三頭山口駅はこの駐車場のすぐ上にある。

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幸い他の車は一台も止まっていない。
これは貸切状態での空中散歩が楽しめそう。

駐車場の脇には、ロープウェーの索道を支える支柱が聳え立っている。

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道路を渡り山に刻まれた石段を上へと急ぐ。

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階段を一つ上ると、その先の怪談には・・・いや階段には雪が積もっていて足元がおぼつかない。

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どうにか上りきると、駅が見えてきた。

39ロープウェー.jpg

そうだ、まずは駅舎屋上から奥多摩湖を眺めてみよう。

幸い屋上へと通じる階段には雪が積もっていない。

43ロープウェー.jpg

屋上に行くと、これから渡る湖の上を索道が一直線に伸びているのがわかる。

45ロープウェー.jpg

さぁて、まず乗る前にちょっとトイレに行って用を足しておこう。

40ロープウェー.jpg

切符はどこで買うのかな・・・

48ロープウェー.jpg

「いらっしゃいませ、大人80円です。」
「じゃぁ2枚ください。」

「・・・ん、この切符110円て書いてある上に80円ってハンコが押してある!?」
「あ、お客様、ただいま割引運賃適用中なので。」

改札口へと向かい、切符を切ってもらってホームへと向かった。

41ロープウェー.jpg

明いていた扉から機械室を覗くと、ぷ~んと機械油の臭いが漂ってくる。
目の前にあるのは、索道にテンションをかけている重さ数トンはあろうかと思われる大きなコンクリートブロックだ。

上に乗ると、かすかに揺れる。

38ロープウェー.jpg

見渡すと、電動機などの機械は見られないので、対岸の川野駅にあるのだろう。
川野駅に着いたら、ぜひ見学させてもらいたいものだ。

いよいよホームに出ると、『みとう号』が待ち構えていた。

34ロープウェー.jpg

36ロープウェー.jpg

37ロープウェー.jpg

やった、一番乗り・・・というかやっばり今日は二人だけのための貸切運行だ!!

乗り込むと、先頭に陣取って対岸を見た。

42ロープウェー.jpg

これから621m、分速180mで走るので、時間にしたらわずか3分ちょっとの空中散歩だ!!

軽いショックを感じると、ゴンドラは湖の上へと飛び出した。

対岸を走る青梅街道の橋がきれいに見えている。

47ロープウェー.jpg

湖の真ん中くらいで、対岸からやってきた『くもとり号』とすれ違う。
くもとり号には誰も乗っていないようだ。

楽しい時間は、あっという間に過ぎるもの、川野駅へと到着した。

・・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話64 花魁渕(おいらんぶち) とある日の昼食 [東京の坂と橋]

怪談等が苦手な方は写真だけ見て読み飛ばし、後半の『うな重』のお話しをご覧ください(^^)

柳沢峠に続く青梅街道の南側に黒川鶏冠山(標高1,710m)があるが、その山裾に黒川金山跡がある。
戦国時代、この辺りは『黒川千軒』と呼ばれていた。
黒川金山は、武田信虎時代に採鉱が始まり、武田信玄の頃に最盛期を迎え、武田軍の軍用金の多くはこの黒川金山から産出されたものだという。
武田勝頼の時代に閉山された。
その後徳川時代になって、大久保長安らによって再び採掘が行われたが、採掘量が減少しまもなく閉山となった。
黒川千軒には、当時の坑道跡、坑夫の住居跡、作業場の跡などが見られる。
この界隈には黒川金山の他、竜喰金山、牛王院金山などの跡がある。

ここ花魁渕は地元の人たちからは『銚子滝』と呼ばれている。
黒川千軒に働く坑夫慰安のために遊郭が設けられていたが、武田家が滅亡して金山を閉山される折、金山の秘密を守るため五十五人いた遊女たちを、口封じのため殺してしまった。
この柳沢川に宴台を造って遊女たちをその上で舞わせ、宴台を吊っていた藤弦を切って宴台ごと渕に沈めてしまったのだ。下流の丹波山村に流れ着いた遊女たちを、村人は引き上げてお堂を建てて供養したと伝えられている。
(塩山市(現甲州市)教育委員会の説明から抜粋)

花魁渕を訪れた日は、数日前に降った雪が道一杯に積もっていた。

21おいらん淵.jpg

なぜか花魁渕は、昼もなお薄暗く陽が当たることはない。

22おいらん淵.jpg

以前ここに立てられていた塩山市観光協会の説明を記した看板は撤去されてしまっていて、慰霊塔のみが残されている。

23おいらん淵.jpg

慰霊塔に呼ばれるように近づくと、静寂を破って聴こえてくるのは、自分の息をする音と、水の砕け散る音のみだ。
早速慰霊塔に手を合わせ、犠牲となった遊女はじめ諸霊の供養をさせていただく。

24おいらん淵.jpg

渕の様子をよく見ようと、渕にせり出した岩に足をかけた。
岩には雪が降り積もっていて、どこからが雪庇か判らず足元を確かめながら恐る恐る足を踏み出す。
岩は雪で滑りやすく足元がおぼつかない。一歩間違えれば、花魁と同じ運命だ。

岩の先まできて渕を覗き込むと、まるで白装束を纏った様に川の水は凍りつき、幾筋もの氷柱を作っていた。

25おいらん淵.jpg

その凍りついた氷柱の脇を轟音を立てて水が流れていく。
あらゆるものを拭い去るかのように・・・

一説によると、花魁が投げ込まれたのはもう少し上流のコリョウ滝付近で、ここは遺体が流れ着いた場所だとも言われている。


場所が場所だけに、ちょっと暗い話題になってしまい、大変申し訳ありませんでした。
ここでお口直しに、とある日の昼食をご紹介しましょう。

先日乗鞍からの帰り道、岡谷市内を走っていると、普通の一軒屋の前を通り過ぎた瞬間同乗者から、「あっ、あの民家は実は有名な鰻屋さんだ!」との話しがあり、Uターンして家の前にあった駐車場に車を止めて玄関をガラガっとあけると、「いらっしゃいませ!」との声が中から聞こえてきました。

玄関を上がって部屋に通されると、ごく普通の畳敷きの広間に座卓がいくつか並んでいます。
早速注文すると出てくるまでにしばらく時間が・・・そう、注文を受けてから鰻を捌いて焼いているのです!!

しばらく待ってやっと出てきたのがこれ。

1うな重.jpg

んん、なんか重が二段重ねになっている・・・

冷奴、肝吸い、白菜の漬物がついてきました。

 

 

 

 

 

2うな重.jpg

まず蓋を取ると・・・

えっ、鰻の蒲焼しか入ってませんっっ

 

 

 

 

 

3うな重.jpg

鰻の蒲焼の重を取ると・・・

えっ、白いご飯・・・

じゃあタレはどうなるの????

 

 

 

 

4うな重.jpg白いご飯を掻き分けると、ななな、なななんと、白いご飯に埋もれた鰻の蒲焼が出てきたではありませんか!!

うな重一人前に、鰻一匹を使った超豪華でボリュームたっぷりのうな重でした。

鰻は口に運ぶとしっかり油がのっていて、口の中で噛まなくてもとろけてしまいそうなやわらかさです。

タレはやや甘めですが、鰻にベストマッチング。
ご飯もおいしく、白いご飯の下にはタレがしっかりかかっていて、申し分ありません。

大満足の一品でした(^^)

お店の名前は・・・おっとしまったっっっ
忘れてしまいました・・・というより店の看板出てたかな・・・


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東京の坂と橋 番外編129 旧日立航空機立川発動機製作所 [東京の坂と橋]

今日はソネットブロガーのkoh925さんのお膝元、立川市と東大和市の市境を少し東大和市川に入ったところにある『旧日立航空機株式会社(現小松ゼノア株式会社)立川発動機製作所跡地の公園を訪れた。

普段は一人での行動であるが、今日はソネットで素敵なイラストと架空、現実を織り交ぜた小気味良い記事を・・・というか物語をアップされている謎の覆面作家先生をお誘いしたところ、快諾いただきご一緒させていただいた。


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以前は、工場敷地内にあったので、自由に見ることができなかったが、同工場が移転してその跡地が東大和市の公園として整備されたことから、貴重な戦争遺産として市の文化財として史跡指定を受けて保存され、公開されている。

戦前は、航空機のエンジンなどを製作していた軍需工場で、戦争も終盤の昭和20年にアメリカ軍の3度にわたる空襲を受け、ここで働く多くの従業員が犠牲となっており、正面右手には慰霊碑も建立されている。

一時は取り壊しの危機にも瀕したが、現在は中には入れないものの、外からその痛ましい姿を見ることができる。

5被災変電所.jpg

南側正面には、多くの機銃掃射の後がそのまま生々しく残されている。

4被災変電所.jpg

ここは1938年(昭和13年)に東京瓦斯電気工業株式会社(翌年日立航空機株式会社立川工場に改名)が建設した航空機エンジンの製造工場だ。

1被災変電所.jpg

ここへの空襲は、1945年(昭和20年)2月17日、4月19日、4月24日の空爆と銃撃により、工場従業員など110余名の方が亡くなられた。

建物裏手にあたる北側には機銃掃射の痕は少ない。

6被災変電所.jpg

この変電所は、上の写真の北側に66,000ボルトを受けて変電所内に引き込み、3,300ボルトに降圧して工場に配電されていた。

3被災変電所.jpg

 

 

戦後も機銃掃射の痕を修復することなくそのまま変電所として工場内への電力供給を1993年(平成5年)まで担い続けた。

その後工場移転にともない取り壊しが決まったが、関係者、地元住民などの強い要望が実を結び、東大和市の文化財として史跡指定を受けて、保存されることとなった。

ここが元航空機エンジンの製造所であることを示すモニュメントが、建物の前の花壇の中に残されている。

2プロペラ・エンジンモニュメント.jpg

この後、ハイラックス君に乗って、西へ、西へと向かうと、こんな雪の中へとたどり着いた。

7ハイラックス.jpg

どこに行ったのか、ボンネットの上にのった制帽はなんなのか、また後日に譲りたい。

明日から乗鞍に行くので、皆様がたのところへの訪問が遅れがちとなりますこと、お許しください。


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東京の坂と橋 四方山話63 活断層・・・その1 立川断層見学会の速報 [東京の坂と橋]

2月8日金曜日と2月9日日曜日は、旧日産村山工場跡地の立川断層調査のためのトレンチ(掘り起こした溝)の一般公開です。

事前の情報では、「駐車場は無いので公共交通機関で」とあったので、モノレールで玉川上水駅まで行って約3kmを歩いて現地に着くと、なんと広大な臨時駐車場を設けて、ガードマンが誘導しているではありませんか。

M38君でいけばよかった(^^;っっ

さて、今日はほんのさわりだけお話して、少しづつ勉強した成果をアップしていきたいと思います。

立川断層は、立川断層帯(埼玉県名栗村から東京都府中市付近まで34km)のうちの南側(青梅市付近から府中市付近まで20km)をいいます。

9榎トレンチ.jpg

立川断層は、1970年代初頭にその存在が明らかにされて調査研究されてきましたが、2003年に政府地震調査委員会は
 1 将来マグニチュード7.4程度の地震が発生する可能性がある
 2 北東側に2~3mの段差が生じる
 3 今後30年の間に地震が発生する可能性は、日本の活断層の中ではやや高いグループに属する
と報告されています。

さらに2011年には、同年の東北地方太平洋沖地震の発生に関連して、次の地震発生確立が高まった活断層の一つとして立川断層の名前があげられています。

今回東京大学地震研究所が中心となって日産村山工場跡地で行われている、立川断層帯トレンチ調査の一般公開が行われ、見学してきました。

12榎トレンチ.jpg

最近原子力発電所で、活断層の調査のため溝を掘っている様子が報道されたのは記憶に新しいことと思いますが、せいぜい深さは数m、長さも20m程度だったと思います。

ここ榎トレンチ(地名をとってそう名づけられたのだと思います)は、深さ30m(おおよそ10階建てのマンションと同じ高かさです)、長さ250m、幅30mの巨大なもので、その大きさは他に例を見ないものだそうです。

10断層面.jpg

上の2枚の写真からその巨大さがお分かりのことと思います。

このトレンチの断面から断層を示す破砕帯がみつかっています。
次の写真は、現場に展示されている写真と、実際に私の撮った同じ部分の写真を並べてみました。
(やや大きさが、下のほうが大きくなっていますが・・・)

2断層面.jpg

帰り際にトレンチの先をみると・・・・

5富士山.jpg

綺麗に富士山が見えているではありませんか。
でもちょっとボウリング場が邪魔・・・・
「ボーリングのピンさん、ちょっとどいて!!」とお願いすると・・・

6富士山.jpg 

綺麗に顔をだしていただきました・・・ってホントかいな(^^)

7富士山.jpg

はい、ちょっと撮る場所を移動させていただきました(^^)

断層面をみると礫層が目立っていますが、これは昔の多摩川が作ったもので、漬物石にちょうどいいくらいの石がごろごろしています。

13榎トレンチ.jpg 

上の写真の人の歩いている部分から1m程度が人間が作った人工的な層(人工撹乱層)で、その次の黒い部分が旧残堀川の河床の堆積物で、その次の茶色い部分が立川ローム層です。
その下が立川礫層になります。

この場にいると、カラカラ音を立てて、少しづつ掘削面の石がが崩れ落ちていく音が聞こえてきます。

掘り出した土砂はこの通り!!

4榎トレンチ.jpg

ちょっとした小山になっています。
この小山から・・・・

8榎トレンチ.jpg

いくつの石を拾ってきましたが、川から拾ってきたといってもおかしくありませんね。

今日は概観をレポートしました。


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東京の坂と橋 四方山話62・・・のさわりだけ 閻魔大王 [東京の坂と橋]

し、し、しまった~!!

今日も五郎八をキッチンで飲み始めたら、すっかりいい気分になって、何もしたくなくなってしまいました。
う~、五郎八君を昨日よりもたくさん飲んでるぞ~・・・

そこで書こうとおもったことのさわりだけ・・・・

このブログのメインテーマである坂と橋の探訪は、この坂がきっかけとなりました。

11043763.jpg

もう5年も前の写真ですが、鬼気迫るものがありますね!
携帯でちゃちゃっと撮ったとは思えない何かを感じます。 

39閻魔大王.jpgそして最近はまっているのが閻魔様です。

以前こんにゃく閻魔をとりあげ、昨年は埼玉県は某寺院にある閻魔様の石造をとりあげました。

 ⇒東京の坂と橋 番外編2・・・こんにゃく閻魔と嫁入り橋

そして、お蔵入りしているネタに、新宿は太宗寺の閻魔大王があります。

さらにさらに、以前六本木は『閻魔坂』をご紹介しました。

 ⇒東京の坂と橋 73・・・閻魔坂

閻魔様・・・調べれば調べるほど面白いんです。
閻魔大王は、仏教や道教では地獄の裁判官である十王のうちの一人です。

そして、閻魔大王の本地(本来の姿)は、な、な、なんと子どもの味方『地蔵菩薩』だってご存知でしたか?

「地獄とは、こんなに怖いところだから、地獄行きにならないように真っ当に生きなさい。」という地蔵菩薩の慈悲の心の現われが閻魔大王の姿なのです。

そんな閻魔様を人々が信仰の対象としたのもうなずけるのではないでしょうか。

詳細は近日公開(^^)!!
今週中には追加取材を敢行し、アップしたいと考えています。
お蔵入りとなっていた新宿太宗寺の閻魔大王も登場です!


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東京の坂と橋 四方山話61 里帰りした鐘 [東京の坂と橋]

先日三分坂下にある報土寺の鐘の不思議な里帰りにいたる話を取り上げた。

⇒東京の坂と橋 四方山話60 報土寺と鐘


さらに4年ほど前、こんにゃく閻魔の鐘をとりあげた。
昔からあったこんにゃく閻魔の鐘は、1937年(昭和12年)にサイパン島に建立された南洋寺に寄進されたが、1944年(昭和19年)のサイパン島玉砕とともに、行方不明となる。

その後、1965年(昭和40年)になんと遠く離れたアメリカテキサス州オデッサ市で発見され、1974年(昭和49年)に里帰りを果たした。

⇒東京の坂と橋 番外編2・・・こんにゃく閻魔と嫁入り橋

DVC00063.JPG

とすると、同じような話がもっとあるのではないかと、探してみた。

すると、結構あるある。

 

古くは、娘道成寺で有名な和歌山県最古のお寺さん、道成寺の鐘である。

道成寺は鐘の無い寺として知られていたが、今から600年ほど前に鐘が寄進される。
ところが寄進された鐘が豊臣秀吉軍によって持ち去られ、現在では、京都の妙満寺に保存されている。

その鐘が2004年に妙満寺から道成寺に2ヶ月間里帰りた。

 

次は月山神社の鐘である。
月山神社の金は、藤原秀平が横沢金山で働く人々の安全を祈願するために寄進したとされ、鐘に「藤原秀平公於羽州月山大権現奉勧請」と刻まれている。

この由緒ある鐘が、東京赤坂の報土寺と同じ1943年(昭和18年)に、金属回収で供出されてしまう。

ところが戦後宮城県松島町の日吉山王神社に保管されていることが判明し、2010年(平成22年)にようやく里帰りを果たすことができた。

 

品川寺の鐘は家康、秀忠、家光三代の法名を刻み六観音を浮き彫りにした鐘で、幕末のパリで開催された万国博覧会に出品された際、盗難にあってしまう。

くず鉄として売られて鋳潰されようとしていたところをスイスの資産家が見つけて買取り、ジュネーブの美術館に展示されていた。

それが判明したのが1919年(大正8年)のことだ。
その後返還交渉を続けた結果、1930年(昭和5年)に返還される。
当時日本政府の代表として返還交渉に当たったのが、小泉純一郎氏の祖父である小泉又次郎氏であった。

これが縁となり、品川区とジュネーブ市は友好都市となり、現在でも市民レベルでの交流が続いているという。

 

とまぁ、調べると、たくさんでてきたが、とりあえず今日はこのくらいにしてお開きにしたい。


東京の坂と橋 四方山話60 報土寺と鐘 [東京の坂と橋]

通常の仕事と、2月2日に行う講演の準備で毎日錯綜していて、ゆっくり記事を書く時間がとれず、今日は3年前に『三分坂』を取り上げた際に書き込んだサイドストーリーの再掲出である点、お許しいただきたい。

つい最近、この話はあるところで執筆しているコラムに、3年前に書いた内容を元に新たに書き下ろしたものだ。

三分坂については、いつもご訪問頂くkoh925さんはじめ多くのブロガーさんが取り上げており、いまさらながら言及するまでもないものと思うので、簡単に済ませて本題に入りたい。


三分坂は、赤坂のTBSの南側、青山通りから薬研坂を下って上りきった先にある急な坂だ。
江戸時代、あまりの急坂のため、この坂を上るルートを通る荷車は、3割増しの料金を取ったことから、『三分坂』と名前がついたとか。

DVC00019.JPG

日露戦争で名を馳せた乃木希典大将は、乃木坂にある自宅を人力車ででると、近衛歩兵第三連隊(今のTBSの辺り)に向かうとき、この三分坂を通ったと記録に残っている。
その際子供好きの乃木大将は、三分坂の下から後棒を担いでくれた駄賃稼ぎの子供の頭をなでたという。

三分坂の下には『報土寺』という寺があるが、この地に移転してきた1790年(安永9年)頃に築かれた築地塀がとてもすばらしく、港区の文化財に指定されている。

DVC00009.JPG

雷電墓.jpg報土寺には、もう一つ有名なものがある。
それは、江戸時代後期の力士『雷電為右衛門』の墓だ(右写真)。

雷電は26年間の力士生活の中で、敗れたのはわずか10回、生涯勝率は9割6分2厘と大相撲史上最強の力士と謳われている。
そんな力士が『横綱』という免許皆伝をもらえなかったのは、大相撲の七不思議の一つとか。
ちなみに、富岡八幡宮にある横綱力士の碑には、「無類力士」として横綱と同格に扱われている。

その雷電は、文化年間に報土寺に失われた鐘を寄進したことから、 同寺と深いつながりができた。
雷電が寄進した鐘には、『天下無双』と銘を入れたことから、幕府の怒りをかって壊されてしまったという。

 

長らく鐘はなかったが、1908年(明治43年)に復元され、第18代横綱大砲右ェ門が一番鐘をついた。

その後物資不足にあえいだ太平洋戦争も末期の1943年(昭和18年)に、戦時下の金属回収にあい鐘を供出してしまう。
当時の住職は、涙を流しながら最後の鐘をついたそうだ。

時はくだり1988年(昭和63年)、たまたま港区の史跡めぐりの一行が、あきる野市戸倉にある普光寺を訪れた際、その寺の鐘に『東京市赤坂咲柳山報土寺』と銘の刻まれていることを発見する。

その普光寺も1944年(昭和19年)に鐘を供出したが、戦後つぶされずに残った鐘を抽選で配られた際にやってきたものだった。

その後両寺で話し合った結果、1989年(平成元年)12月に46年ぶりで鐘は報土寺に戻り、その一番鐘を第58代横綱千代の富士がついた。

残念ながら、戦前涙を流しながら見送った住職は亡くなっており、そのご子息に代替わりしていた。
亡くなった先代の住職は子供の教育にも熱心で、生前毎年あきる野市戸倉にあるキャンプ場で、『子供キャンプ村』を主催していた。

そのキャンプ場は普光寺からも近く、普光寺から伝わってくる鐘の音を聞くと、先代の住職は手を合わせて「なんと良い鐘の音か。」といい、聞き入っていたという。

先代の住職と、この鐘は心で結ばれていたのだろう。


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東京の坂と橋 四方山話59 東京の様々な呼び名 [東京の坂と橋]

明治維新になって東京府が置かれると、近代化の大きなうねりの中で東京は大きく発展するとともに、様々な地域の呼び名が誕生した。

≪都下・三多摩≫
たとえば「東京23区内と東京都下」。
これは東京府の時代に東京市内(現在の23区にほぼ重なる)と東京府下(現在の多摩地域に重なる)という呼び方をしていたことから、1943年(昭和18年)に東京都になった後も、「東京23区内と東京都下」という呼び名が残った。

≪都心・副都心≫
東京産業労働局発行の「東京の産業と雇用就業」では、次のように23区部を分類している。

地域名該当区 
都心地域 千代田区・中央区・港区
副都心地域新宿区・文京区・渋谷区・豊島区 
城東地域台東区・墨田区・江東区・荒川区
足立区・葛飾区・江戸川区 
城南地域品川区・目黒区・大田区 
城西地域世田谷区・中野区・杉並区・練馬区 
城北地域北区・板橋区 

 ◆都心地域のことを都心3区ともいうことがある。

 ◆都心3区に新宿区、渋谷区を加えて都心5区ということもある。

 ◆東京都の定めた都市計画の副都心は次のとおり。

  新宿新都心、池袋副都心、渋谷副都心
  上野・浅草副都心、錦糸町・亀戸副都心
  大崎・品川副都心、東京臨海副都心



≪気象庁による警報区分≫

各種気象情報を発令する場合の区分は次のとおり。

◆23区東部 台東区、墨田区、江東区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区・・・以上7区

◆23区西部 港区、新宿区、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区、
         千代田区、中央区、文京区、豊島区、北区、板橋区・・・以上16区

港区や千代田区、中央区が「23区西部」にはいるのは、ちょっと違和感がないだろうか?

≪ナンバープレート≫
ナンバープレートに記載される陸運支局の地名は、次のとおり。

支局名該当地域
品川 千代田区、中央区、港区、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、島嶼部
練馬新宿区、文京区、中野区、杉並区、豊島区、板橋区、練馬区、北区
足立台東区、墨田区、江東区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区
八王子八王子市、あきるの市、日野市、福生市、青梅市、羽村市、西多摩郡 
多摩立川市、武蔵野市、三鷹市、府中市、昭島市、調布市、町田市、小金井市、小平市、東村山市
国分寺市、国立市、狛江市、東大和市、清瀬市、東久留米市、武蔵村山市、多摩市、稲城市、西東京市












改めて聞かれると良くわからなかったり、するものではないだろうか?

連休中のナイアガラの乗務は、は23日日曜日と24日月曜日に始発から17時ころまで乗務します。
よろしかったらお越しください。


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東京の坂と橋 番外編128 日野駅と山下堀 甲武鉄道と日野煉瓦4 [東京の坂と橋]

⇒甲武鉄道と日野煉瓦0
⇒甲武鉄道と日野煉瓦1
⇒甲武鉄道と日野煉瓦2
⇒甲武鉄道と日野煉瓦3
甲武鉄道と日野煉瓦4

甲武鉄道開業時の日野駅は、現在の日野駅より八王子よりの現在では資材置き場として使われている辺りにあった。

12明治30年日野駅.jpg
日野街角ギャラリーより

1936年(昭和11年)6月1日に中央線の複線化に伴って、現在地に移転し開業した。

31日野駅.jpg
日野街角ギャラリーより

この1937年に建てられた駅舎が現在はというと・・・・

32日野駅.jpg

そう、1937年以来日野の玄関口として、現在まで使われているのである。ご覧になられてお分かりの通り、ご当地多摩界隈の農家をイメージして建てられている。

さて、このシリーズの最初に、日野駅ホームの下に眠る甲武鉄道開業当時の遺構について質問を発したのをご記憶にあるだろうか?

31山下堀.jpg

上の写真のコンクリートの出っ張りの部分の地下に埋もれているものの正体は、地下3mほどのところにある。
次の写真がその回答だ。

33山下堀.jpg

日野駅周辺は田園地帯で、多摩川に沿って西から東に山下堀、上堰用水、下堰用水が流れていた。

甲武鉄道建設の際多摩川の鉄橋から日野駅まで堤を築いて線路を敷設したが、現在の日野駅付近を流れていた山下堀は、築堤の下に暗渠を築いて流したのだ。

ここに百数十年を超えて現代まで変わらぬ姿を見せている随道の煉瓦は、日野煉瓦製で、壁面はイギリス積み、天井部分は長手積みで作られている。

1枚上の写真に写っている左側のベンチの前にあるマンホールが、この暗渠の入り口になっている。

下総弾正くまさんのコメントに「暗渠化された川」とあったが、大正解だ。


タグ:甲武鉄道
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東京の坂と橋 番外編127 飛飯綱 甲武鉄道と日野煉瓦3 [東京の坂と橋]

⇒甲武鉄道と日野煉瓦0
⇒甲武鉄道と日野煉瓦1
⇒甲武鉄道と日野煉瓦2
⇒甲武鉄道と日野煉瓦3

甲武鉄道と日野煉瓦2でご紹介した西の地蔵堂の隣に鳥居が移っているのにお気づきだっただろうか?
その鳥居が飯綱大権現である。

21飯綱大権現.jpg

21飯綱大権現.jpg言い伝えによれば、1199年(正治元年)に創建されたが、1428年(正長元年)にご神体がここから程遠くない高尾山に飛び移られた事から『飛飯綱』と呼ばれるようになった。
また『いずなさま』とも呼ばれて、地元の方々から親しまれている。
その後、1827年(文政10年)に再建されたという。

そのほか、高尾山からこの地にご神体飛んできたという説、武田信玄の息女松姫が、1582年(天正10年)兄勝頼の天目山滅亡のとき、落ちのびて八王子の信松院の尼となり、お伴の家来が当地に土着して、故主武田信玄の信仰していた飯綱権現を祀ったという説もある。

いずれにせよ、高尾山とは関係が深く、文政10年4月3日の棟札には、表に「奉再興飯縄社一宇」と「縄」の文字が使ってあり、裏には「遷宮導師高尾山薬王院住第廿世大僧都法印岳純」とある。

昔は日野駅西側の小高い丘の上に、百数十段の階段を登ると飯綱権現が祀られていた。
ところが1888年(明治21年)、甲武鉄道が敷設される際に現在地に移築された。

甲武鉄道を敷設する際、橋梁などに多くの煉瓦が使われたが、なんとこの神社が移築されたときに、土台に煉瓦が使われているのだ。

18飯綱大権現.jpg

煉瓦の積み方は、鉄道関係と同じイギリス式に積まれている。

お堂の中の祠の土台も煉瓦製だ。

20飯綱大権現.jpg

ただ、関東大震災のときに一部崩れて修復されているため、この煉瓦が創建当時のものかはわからない。

この飯綱大権現は、日野駅ホームのすぐ脇にあるのだが、気づく人は少ない。

19飯綱大権現.jpg


タグ:日野煉瓦
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東京の坂と橋 番外編126 日野宿 西の地蔵 日野煉瓦2 [東京の坂と橋]

⇒甲武鉄道と日野煉瓦0
⇒甲武鉄道と日野煉瓦1
⇒甲武鉄道と日野煉瓦2
⇒甲武鉄道と日野煉瓦3

江戸時代の甲州街道の道筋は、次の地図の赤い線で引かれたところである。
日野宿本陣から現在の甲州街道(国道20号は、日野バイパスが完成したことから、日野駅前を通る旧国道20号は、現在は都道256号となっている)を西進すると、日野駅手前で左に曲がり、日野駅ホームの南端でJRをまたいで、日野市大坂上方面へと続いている。

17西の地蔵.jpg

現在JRで分断されている旧甲州街道は、実は昔は踏切があって、行き来できた。

次の写真は、1971年(昭和46年)2月に撮影されたもので、日野市街角ギャラリーに掲出されているものだ。
同じ角度に近くなるように撮ったのが、その下の写真である。

13日野駅.jpg

電車の右側に写っている堂宇の中には、地蔵尊が祀られていて、この堂宇が日野宿の西のはずれだったことから、『西の地蔵』とも『坂下地蔵』とも呼ばれている。

16西の地蔵.jpg

甲州街道を八王子方面からやってくると、坂を3/4くらい下ってきたところに位置することから、坂下地蔵とも呼ばれるようになったようだ。

この堂宇の前に大きなお地蔵さまが2体、小さなお地蔵さまが6体祭られているが、『西の地蔵』は堂宇の中に祀られている。

20西の地蔵.jpg

写真ではちょっとわかりづらいかもしれないが、青銅製の坐像で、高さは120cmある大きなものだ。

1713年(正徳3年)、江戸小舟町の井田八左衛門が近郷の人々の協力を得て寄進されたもので、正式名称を『本尊延命地蔵尊』という。

行きかう旅人を、静かに見守ってこられたが、創建当時の堂宇は、明治末期に焼失してしまい、現在の堂宇は1932年(昭7年)に再建されたものだ。

甲州街道西の入り口に『西の地蔵』があるのであれば、東の入り口にも『東の地蔵』があるのだが、その後紹介はまた後日!!


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東京の坂と橋 160 横穴橋 甲武鉄道と日野煉1 [東京の坂と橋]

⇒甲武鉄道と日野煉瓦0
⇒甲武鉄道と日野煉瓦1
⇒甲武鉄道と日野煉瓦2
⇒甲武鉄道と日野煉瓦3

先日参加したギャラリートーク&日野まちなか探検『甲武鉄道と日野煉瓦』を実際に歩いた順にポイントポイントをアップしたい。

歩いた経路は、上の地図をご参照ください。
起点は高幡不動駅となっていて、前回は集合場所である新撰組のふるさと歴史館までの道程をご紹介した。
今日は、新撰組のふるさと歴史館を出発して、最初のポイントである坂西横穴墓群を紹介したい。

日野駅を下り電車が出発すると、掘割を抜けて豊田へと向かう。
実は甲武鉄道開業当時の日野駅は、今の駅より豊田よりのやや広くなっている位置にあった。

12明治30年日野駅…日野街角ギャラリーより.jpg
明治30年頃の日野駅・・・日野街角ギャラリーより

この線路と併走する道路に橋があるのをご存知だろうか?
もちろん、下の写真上部の渡線橋のことではない。

15横穴橋.jpg

なんの変哲もない道であるが、実はこの写真中央部(M38の停車している手前)は橋になっているのである。
道路左側のコンクリートが盛り上がっている部分に寄ってみると・・・・

16横穴橋.jpg

なんと『横穴橋』というプレートが埋め込まれている。
また、道路山側には『1975-9(昭和50年9月)』という日付のプレートがある。

17横穴橋.jpg

線路の反対側からみてみると、確かに橋になっている。

11坂西横穴墓群.jpg

実は、1974年(昭和49年)に区画整理事業で道路を建設中に横穴式の墓が発見された。
これが後に東京都の史跡指定を受ける『坂西横穴墓群』である。

周辺を発掘調査したところ、7基の横穴墓が発見され、そのうち1号、3号、4号の3基が保存された。
この横穴橋は、1号墓を保存するための橋なのである。?

14坂西横穴墓群.jpg
現地に掲出されている説明版

線路反対側からこの橋の下をアップしてみたが、様子ははっきりわからない。

18坂西横穴墓群.jpg

盗掘されているため、副葬品などなく構築年代が特定できるものはないが、梵天山横穴墓群などとの比較から、7世紀後半に作られたものと考えられている。

毎日中央線を利用されている方々でも、日野駅の豊田よりの山腹に遺跡が眠っていることをご存知の方は多くは無いだろう。

ところで、新宿を出発した中央線下り電車は、立川まで25kmをほぼ直線で西進する。
立川を出ると南南西に約80度カーブし、多摩川を渡って日野駅へと至る。

立川から八王子へのルートは、「ここしかない」という絶妙の地形を選んで進む。
線路脇に横穴墓群があったということから、この中央線のルートは、日野から豊田に向けて広がっていた谷戸部分を開削して通したということがお分かりだろう。

多摩川を渡ると日野駅までは築堤の上を進むが、谷戸を開削した土でこの堤を築いたと言われている。

次回は甲州街道日野宿の西端にある「西の地蔵」と日野駅ホーム脇にある土台を煉瓦で築造された神社をご紹介したい。


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東京の坂と橋 四方山話58 甲武鉄道と日野煉瓦0 [東京の坂と橋]

⇒甲武鉄道と日野煉瓦0
⇒甲武鉄道と日野煉瓦1
⇒甲武鉄道と日野煉瓦2
⇒甲武鉄道と日野煉瓦3

今日は午前中ボーイスカウトの会議に出た後、午後から日野市郷土資料館の主宰する「ギャラリートーク&まちなか探検『甲武鉄道と日野煉瓦』」に参加してきました。

幸いちょっと早めに出られたので、今日の集合場所の新撰組のふるさと歴史館まで高幡不動から3kmちょっとを歩いて向かいます。

1高幡不動.jpg

高幡不動の背後の愛宕山も紅葉できれいなのですが・・・ピンを手前の淺川河川敷の木々に合わせてみました。

風も無く、穏やかで歩いていると汗をかくくらいの陽気です。
河川敷のススキは、陽光を浴びて輝いていました。

2淺川.jpg

途中の住宅街では、こんなすばらしい紅葉が見られます。

3紅葉.jpg

日野市は、新撰組土方歳三の故郷として売り出しています。

4ふるさと歴史館.jpg

ふるさと歴史館で、基本的なお話しをうかがった後、日野市内探検に出発です。

5ふるさと歴史館.jpg

日野駅南端にある西の地蔵堂の前にあるお地蔵さまは、陽光を浴びてやさしく微笑んでいます。

6西の地蔵堂.jpg

日野駅までやってくると、日野駅ホームの下に未だ甲武鉄道開通当時に造られた遺構・・・おっと未だ現役だそうです・・・が残っていたとは知りませんでした。
次の写真のベンチとベンチの間にあるコンクリートの出っ張りが手がかりとなります。

7日野駅.jpg

さて皆さん、ここにどんなものがあるのかご存知ですか?
回答は、次回以降にでも[わーい(嬉しい顔)][手(パー)]

中央線沿いに多摩川まで出ると、鉄橋を観察[ひらめき]

8多摩川.jpg

途中休憩に立ち寄った施設には、こんなすばらしい展示が!!

9紙人形.jpg

今日はいろいろ新しい発見などあって、とても楽しい一日となりました。
残念ながら、講義要綱の作成は終わっていないため、今日も単なる写真の羅列でごめんなさい。

また、皆様方のところへの訪問も滞っていること、お許しください。

最後にもう一つ質問です。

次の石標には『高幡山不動尊道』と記されていますが、この石標がどこにあるのか・・・ちょっと意外なところにありました。
さて、どこにあるのでしょう?

10参道石標.jpg


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東京の坂と橋 番外編125 松本市専称寺 徳本念仏塔 [東京の坂と橋]

14徳本念仏塔.jpg

松電プロジェクトで訪れた松本市の松本電鉄新村駅近くに浄土宗のお寺『三明山専称寺』がある。

先日新村駅を訪れた際、専称寺まで足を伸ばしてみた。

13お寺.jpg

1568年(永禄11年)の創建で、信州七福神の弁財天札所の他、松本三十三観音十九番札所の観音堂がある。
次の写真は、本堂左手にある観音堂だ。

20お寺.jpg

境内に入り本堂に手をあわせた後、ひときわ目を引く大きな念仏塔がすぐに目に飛び込んできた。

以前ご紹介した地元近くの多摩市吉祥寺にある徳本念仏塔は、子供の背丈程度の高さであったが、ここ専称寺の徳本念仏塔は見上げるばかりの大きさである。

⇒吉祥寺の記事はこちらです

15徳本念仏塔.jpg

以前ご紹介した徳本念仏塔と字体はそっくりであるが、線の太さといい、力強さといい、圧倒的な存在感を示している。
1827年(文政10年)に建立されたことから、既に200年近く境内を行く人々を見守ってきたことになる。

徳本上人は江戸時代後期の浄土宗の僧で、独学で念仏の奥義を悟り、諸国を行脚して独特な筆跡の念仏塔を1000基以上建立したと伝えられている。

16徳本念仏塔.jpg

冒頭の写真は、「阿弥陀」にぴんとをあわせたが、上の写真は、「無」にピントを合わせてみた。

まるで徳本上人の激しい祈りがあふれ出てくるような写真ではないだろうか。

この念仏塔の後ろには、多くの石仏たちが見守っている。

18お寺.jpg

境内にある木々はすっかり紅葉していた。
次の写真も上の念仏塔とおなじく露光間ズームで撮ってみた。
ただし、念仏塔ほど激しくは撮っていない。

17お寺.jpg


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東京の坂と橋 番外編124 地福寺と島崎藤村 [東京の坂と橋]

先日の大磯行で最後を締めくくったのが、大磯駅から割りと近くの地福寺である。

28地福寺.jpg

この地福寺は、ある著名人の墓があることで有名だ。

31藤村墓.jpg

そう、島崎藤村である。
大きな石の墓標があるという訳ではなく、非常に質素な墓標であることに最初は驚いたが、島崎藤村の生き様を考えると、藤村らしいのかもしれない。

すぐ隣にある静子婦人の墓標も同じつくりである。

30藤村墓.jpg

島崎藤村は、温暖な大磯を心から愛し、この地に家を構えた。

36島崎旧居.jpg
34島崎旧居.jpg

藤村の旧居跡の前は公園になっていて、色とりどりの花が咲き誇っている。

32花.jpg
26花.jpg

藤村は、執筆の合間を縫って、大磯の街の路地を歩き、このような花を愛でたのだろうか?

今まで大磯シリーズをアップしてきた際に花の写真を合わせてアップしてきたが、その大部分は藤村旧居跡の前にある公園で撮影したものである。

これにて、今回の大磯行の紹介については、筆を置きたい。


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東京の坂と橋 番外編123 鴫立庵 [東京の坂と橋]

鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされ、ここ大磯の国道一号線沿いの鴫立沢に立っている。

22鴫立庵.jpg

敷地内に320年前に建てられた『鴫立沢』と刻まれた石碑の裏側には、「著盡湘南 清絶地」と刻まれている。
ここから、「湘南」という地名が広まったとも言われている。

残念ながら、写真は撮っていない。 

入り口のすぐ右側には『旧跡 鴫立澤』ときざまれた大きな石標が立っている。

25鴫立庵.jpg

27西行坐像.jpg『鴫立澤』は現在では、地名になっているが、西行の詠んだ歌

 「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(『新古今和歌集』)

からきている。

西行物語によると、1186年(文治2年)の秋に欧州平泉に向かう途中、藤沢界隈で歌った和歌とされている。

夕方道を急いで歩いていると、西行の気配に驚いて、一斉に鴫たちは羽音を残して飛び立ってしまい、訪れた静寂に寂寥感を募らせたことを表現しているのではないだろうか。

入り口に立っていた標識によると、1664年(寛文4年)に小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりといわれている。

敷地の中には、等身大の西行坐像が祭られた祠もある。
この坐像は写真に収めてきたが、非常に生き生きとしたすばらしいものである。

23鴫立庵.jpg

 

金曜日は、午前中に3時間半、午後に3時間半、立ちっぱなし、喋りっぱなしで講演をおこない、最後には声がかすれて喋るのもままならなくなってしまった。

今日は休み時間もなく、全く皆様方のところへの訪問ができていない点、お詫び申し上げます。

明日は16時くらいまで、ナイアガラに乗務予定です。
皆様方のご乗車を心よりお待ち申し上げております。


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東京の坂と橋 番外編122 大磯町の石仏 [東京の坂と橋]

大磯町では、多くの路地を歩いた。

17路地.jpg

素敵な路地が多く、飽きることも無くあちこち歩き回る。

21路地.jpg

そんな裏路地を歩き回っていると・・・

残念ながらこの路地は、舗装されてしまっている。

14路地.jpg

この路地を進んでいくと・・・

15路地.jpg

やや、なんだこれは!?

16石仏.jpg

風化が激しく、お顔は半ば欠け落ちてしまっているが、彫られているのは観音菩薩だろうか?

かろうじて右肩に『文政9年(1826年)11月吉日』と彫られ、左側には、『施主』の文字が読み取れるが名前までははっきりしない。

側面や裏側に刻まれた文字は無く、何のために建立されたのか・・・文政9年は庚申の年ではないので、庚申塔ではないだろう。
・・・とすれば、道祖神だろうか。

道の落ち葉を掃き清める程度には手入れをされているようだが、信仰の対象にはなっていないようだ。

200年近く前にここに石仏を建立した人に思いを馳せると、手を合わさずにはいられなかった。

こんな路地を歩いていると、あちこちに素敵な花が咲いていた。

19花.jpg


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東京の坂と橋 四方山話57 つなぎの龍とお元気三猿、そして子宝・子育ての虎 [東京の坂と橋]

その昔、秩父札所十五番少林寺近くに、「天ヶ池」という池があった。
その池に棲みついた龍が暴れた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができていたことからこの彫り物の龍を鎖で繋ぎとめたところ、その後、龍は現れなくなったという。
秩父神社の東北(表鬼門)を守護する青龍こそ、彼の名工 左甚五郎の作と伝わっている。
27秩父神社.jpg
中央の青龍に寄ってみよう。
36秩父神社.jpg
鎖で繋ぎとめられているのがお判りだろうか。
反対側にも見事な青龍が佇んでいる。
32秩父神社.jpg
こちらは鎖でつなぎとめられてはいない。
青龍の下には、雉と三猿が彫られているが、この三猿にちょっと注目いただきたい。
29秩父神社.jpg
目をしっかり見開き、口を大きく開け、耳を澄ましているではないか。
通常の三猿(見ざる、言わざる、聴かざる)とは、全く逆である。
この三猿は、『お元気三猿』として親しまれているもので、「よく見て、よく聴いて、よく話そう」ということを表現している。
この三猿も非常に生き生きと見事に彫られているが、この三猿も左甚五郎の手によるものなのかは、分からない。
さて、ここ秩父神社にはもう一つ左甚五郎作と伝わっている彫刻がある。
それが、『子宝・子育て虎』だ。
35秩父神社.jpg
34秩父神社.jpg
ぐるっと見て回った中で、そのほかに目立った彫刻が次の梟だ。
37秩父神社.jpg
よく見ると、体は本殿の方を向いていて、頭を回転させて真北を向いている。
秩父神社の祭神である妙見様北極星を中心とした北辰北斗の星の信仰であり、この梟の見ている方角が北であることから、妙見様と縁の深い瑞鳥であるといわれている。
そのほか多くの見事な彫刻が施されているが、その中でも今日ご紹介させていただいたものが群を抜いているのではないだろうか。
今回この記事を書くにあたり、左甚五郎について調べてみると、意外な事実を知った。
以下、wikipediaからの抜粋である。

左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くあり、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞となっていたようである。

秩父市内を歩いてみると、こんなものが随所にあった。
30秩父神社.jpg
とても素敵な道標であるが、中央にはこんなかわいらしい彫刻があった。
31秩父神社.jpg
この可愛らしいお元気三猿は、「よく見て、よく聴いて、よく話そう」としている。
最後にこの前にもアップさせていただいたこの写真に乗って不思議の国にワープ!!
22秩父神社.jpg

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東京の坂と橋 番外編121 滑川町の石仏3 [東京の坂と橋]

今日から3週間、若者を預かって、終日つきっ切りで研修を行ないます。 
私の自分の仕事を片付けられるのは、朝出勤する6時00分から始業時の8時40分までと、業後しかありません。

一日全身全霊をこめて話しをするとヘトヘトとなり、業後の仕事がはかどるはずも無い。
とするならば、朝の2時間40分に自分の仕事を凝縮させなければ!!

加えて本日は、夜ボーイスカウト講習会・・・ボーイスカウトって何? どんな活動をしているの?   というようなことを保護者の方や、これからリーダーをやってみようという方、ボーイスカウト運動に興味を持った方などに体験学習をする場・・・のスタッフ会議がありました。

今月いっぱいは、皆様方のところへの訪問は中々難しく、記事をアップするのがアップアップの状態・・・おっとオヤジが入ってしまった・・・(^^;っっ

ご訪問させていただくのが、滞りがちになるものと思いますが、お許しください。

 

さて、今日の本題は昨日の続きです。
なんと一箇所の石仏群で三回も引っ張ってしまったが、最後までよく分からなかったのが、次の地蔵菩薩立像である。

10地蔵菩薩.jpg

残念なことに、お顔が向かって右上から左下に袈裟懸けに割れたのを修復した痕があり、お顔の向かって左半分の表面が剥落していて、その柔和であろうお顔がはっきりしない。

建立年月や、発願者などの刻印は無くどんな経緯で建立されたのか、何処にあったのかなどが分からない。

しかし路傍にあったにしては造りは非常に丁寧で、注目すべきは台座部分の彫刻である。

まず台座の卵形の部分を拡大してみよう。

7地蔵菩薩.jpg

顔の部分がはっきりしないが着ている着物の様子から、見た瞬間から女性が天秤棒を担いで、その前後には薪を乗せて運んでいる姿に見えた。

農民の日常の様子がその台座に彫られた地蔵菩薩とは、なんと農民の生活に密着したお地蔵さまではないか!!

さらにその下の四角い台座にも素晴らしいレリーフが彫られている。

8地蔵菩薩.jpg

残念ながら私の乏しい知識では、向かって左が葉を繁られた枝であることしか分からない。
線香をあげた燃え残りがあるが、日頃からしっかり守られていることがひしひしと伝わってくる。


さて、いよいよここから秩父に向かうのであるが、当初は秩父まで走って地元のお店を探して昼食にしようと考えていたが、タブレットで道順を再確認すると、なんと所要時間は1時間30分とでている。

・・・そうすると、到着予定は15時30分頃になってしまい、ランチにはチト遅い。
そこで、みちみちどうしようかと考えていたが、国道254号線を寄居へと向かっていく途中にあったガストに入ってランチ休憩と相成った。

55ガスト.jpg

お昼ご飯を頂いて、コーヒーで一息いれると、いざ秩父へと向かった。

途中長瀞界隈で雨に降られ、レインウェアーを着ての運転となったが、16時過ぎに秩父に到着した頃には、雨は止んでいた。

秩父神社の様子は次回にアップしたい。

8M38.jpg


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東京の坂と橋 番外編120 滑川町の石仏2 [東京の坂と橋]

ご紹介している石仏群の周りは豊かな田んぼで、黄金色に実った稲の穂は重く頭をたれていて、M38君で走り抜けると、実りの稲の香りがしてくる。

これはJeepだからこそ味わえる豊かさだ。
他の車では窓を開けて走ったところで味わえない幸せである。

14M38.jpg

さて、昨日の記事で全部の石仏をご紹介しなかったのは、もう少し調べる時間が欲しかったからであるが、一日でたいした進展は無かった。

これで「もう少し時間をかけよう」と先送りすると、過去に山のようなボツネタ・・・書けずにいるもの・・・と同じ道を歩んでしまうことと思われるので、分からないなりにアップしたい。

0全体.jpg

まず最初に全体写真の左から4番目の馬頭観音は、取り立てて珍しいものではない。

9馬頭観音.jpg

表面に1798年(寛政10年) 馬頭観世音 比企郡山田村 と印されている。

次に先日アップした如意輪観音像である。
(次の写真は、先日アップしたものとは別の写真である。)

11滑川町如意輪観音.jpg

ここでご注目いただきたいのは、台座に刻まれた『一十二夜待 奉造立如意輪観音』とある文字だ。

『夜待』とあるのは、江戸時代中期以降に女人講として広く民間に広まった月待信仰によるものである。
集まる月齢に応じて『十五夜待』や『二十三夜待』などが有名である。

月待信仰は、如意輪観音像や、二十三夜待と文字の彫られた石仏に集まり、月の出るまで勤行をしたり食事をしたりする。
特に如意輪観音は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられた観音様だ。

ここで『一十二夜』というのが私は聞いたことが無い。
そこで色々調べてみると、埼玉県北西部から群馬県中西部にかけて、広く『二十二夜塔』が分布しているとの記述を見つけた。(⇒熊谷市web博物館)

また、月待行事で多い月齢は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜が多いことが分かった。
また横に彫られている建立月は『一十二月』ではなく『十二月』となっている。
以上に鑑み、字の彫られている位置からも頭の『二』の上部の横一文字がかけて『一』に見えているのであって、これは『二十二夜塔』と見るべきだろう。

13滑川町如意輪観音.jpg14滑川町如意輪観音.jpg

台座の右側面には、「比企郡山田村中郷』と彫られている。
左側面には明和元年(1764年)十二月吉日 蒔谷根● 講中山王女中不残と印されている。

江戸時代二十二夜に村の女性が集まり、勤行をしたり食事をしたりして月の出るのを待ったのだろう。
月を拝むことによって悪霊を追い払い、病気や不幸の退散と、家族の健康と幸せを祈ったことだろう。

次回は地蔵菩薩立像をご紹介したい。

                                                         ・・・続く


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