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麻布十番と一の橋 [東京の坂と橋]

「麻布十番」という地名からは、江戸から続く伝統と現代的な洗練された文化の街、あるいはおしゃれな街という印象を多くの方がもたれると思います。

街並み.jpg

また港区には67か国の大使館がありますが、麻布十番には、

オーストラリア大使館
  シンガポール共和国大使館
  オーストリア共和国大使館
  パラオ共和国大使館
  在東京パナマ共和国総領事館
  大韓民国大使館
  アフガニスタン・イスラム共和国大使館

などがあり、多文化が共存するインターナショナルな街でもあります。

麻布十番は、江戸中期までは畑作中心の農村地帯でしたが、運河が整備されて商工業が発展すると、江戸末期の安政6年(1859年)にはアメリカ公使館などがおかれ、今の「インターナショナルな街」の先鞭をつけました。

明治に入り鉄道馬車が整備されると工業化が進み、関東大震災以降は東京屈指の盛り場としての地位を確立しました。その後戦後高度成長期まで、都電が4路線乗り入れる(図2参照)など、多くの人が訪れる商業地として賑わったといいます。

ところが1960年代半ばに都電が廃止されると、最寄り駅の六本木駅からは高低差(六本木駅標高30m→麻布十番駅標高5m)が障害となり陸の孤島と化して、人足は遠のいてしまいました。さらに、周辺地域の発展に伴い、麻布十番の地位が相対的に低下したことも影響しているといえるでしょう。例えば、1984年には鳥居坂下にディスコ「マハラジャ」が開店するなど、バブル期には他地区への人気が高まりました。

一方、2000年に東京メトロ南北線と都営大江戸線が開通して麻布十番駅が誕生すると、地元商店街を中心とした納涼イベントや、各国大使館が出店する国際バザールなどのイベントによる巻き返しが功を奏して、おしゃれなショップやレストランが多く集まるようになり、若者や外国人にも人気のある地域へと変貌していきます。商店街には100年以上の歴史を持つ老舗店も多く、伝統的な日本文化と新しい文化が融合した地域へと発展しました。

 次の地図は、1849年(嘉永2年)の切絵図(出展:東京都立中央図書館所蔵)です。1849年といえば、明治維新の20年前、ベリーの浦賀来航が1853年(嘉永6年)なので、日本が激動の明治へ向かう前夜というところでしょうか。

1 江戸切絵図 東京都立中央図書館蔵
切絵図2.jpg

大名の下屋敷や、旗本・御家人などの屋敷とともに、六本木に向かう谷筋は町人が住む街だったようで、江戸中期までの農村の趣きはすっかりなくなっています。

切絵図の左手上部から下に下り中央下部で直角に下に曲がる川が古川です。天現寺橋までは渋谷川(現在では渋谷駅の地下を流れる川で、童謡『春の小川』で謳われた川として有名)ですが、その下流は古川と名を変えます。この古川が、切絵図の下部から直角に左に曲がるところが一ノ橋ですが、ここが現在の麻布十番交差点付近です。

次の写真は、現在の古川です。一の橋の上から上流を見たところですが、上空を首都高速が走っています。この一の橋の上が環状線から首都高速2号線が分岐する一の橋ジャンクションとなります。
古川.jpg

現在の一の橋は、レトロな雰囲気の橋ですが、昭和58年に竣工した橋です。
一の橋.jpg
一の橋2.jpg

一の橋のたもとには、現在の橋が竣工した時の石碑があります。その石碑には、次の通り刻まれていました。

一之橋の由来
一橋は元禄12年(1699年)8月
始めて架けられ、命名されたと言う
前年の白金御殿(南麻布にあった将軍
綱吉の別荘)造営にともなう古川改修
によりニ之橋等とともにかけたものと
されているが、改修いぜんの寛文13年
(1673年)の地図に、その前身とも
思われる橋が、近い位置に架けられて
いたのを見ることが出来る。一之橋は
十番商店街を控え、古くからの交通の
要所であって、今日も都心南部での
有名な橋の一つとなっている

昭和58年1月港区
石碑.jpg

なお、この古川の地下30~40mには、治水対策の一環として一の橋から恵比寿橋上流までの3.3kmに、直径7.5mのトンネルを掘った地下調整池が造られています。

さてさて、次々と疑問がわいてきて、止まらなくなってしまいました。
1 麻布十番の地名の由来は何なのか?
2 麻布十番があれば、一番、二番・・・は無いのか?
3 なぜ駅が新設されたときに、「一の橋」や「麻布」ではなく「麻布十番」としたのか?

1 「麻布」という地名の由来
 江戸時代この地域では、麻を盛んに栽培していたことから、麻生が転じて麻布となったようです。あるいは、その麻で織物を作っていたことから、麻布となったとも考えられます。

 2 十番の他に一番、二番・・・はあるのか 
 将軍徳川吉宗の白金宮を建設するために、人足たちがいくつかの組に組織され、周辺に住んだそうです。
 その組に番号が振られ、たまたま麻布に住んだ組が十番目の組だったから、麻布十番は「麻布に住む十番目」という意味です。何故か他の組は地名に名を遺すことなく、現在では「十番」しか存在しません。
 なお1962年の地区番号改編で麻布十番という地名が復活し、現在では麻布十番1丁目から麻布十番4丁目まであります。

3 麻布十番という駅名の由来
 昔の都電路線図を確認しましたが、どこにも「麻布」の名を冠する電停(電車が止まる停留所)はありませんでした。
 図2都電路線図は、往時の都電路線図(出展:東京都交通局 1962年(昭和37年)10月現在)です。
 左手中央端に品川駅がありますが、そこから右に目を向けると、東京タワーが描かれています。そしてその左手上に一ノ橋がありますね。ここが現在の麻布十番です。
 路線は、
 ①   4系統  五反田駅前 ⇔ 銀座二丁目
 ②   5系統  目黒駅前  ⇔ 永代橋
 ③   8系統  中目黒駅前 ⇔ 築地
 ④   34系統 渋谷駅前  ⇔ 金杉橋
 南北線・大江戸線が開通するとき、駅名について地元民と話し合いがもたれたそうです。東京都交通局などからは、セレブなイメージのある「麻布」という案が示されましたが、駅の住所は麻布十番1丁目にあることから地元の方々は「麻布十番」を押し、『麻布十番駅』と決まったようです。
地下鉄2.jpg

 電停の名前だった「一ノ橋」という案は、どうだったのでしょうか。

2 都電路線図 東京都交通局
都電路線図2.jpg

 ちなみに『一の橋(一ノ橋)』という名前は、港区が運営する地域コミュニティバスの停留所に『麻布十番駅前[一の橋]』となっています。おそらく都電が廃止されると代替バスが走りますが、麻布十番駅ができた時にバス停『一の橋』は『麻布十番駅前』に変更されたのではないかと推測しますが、未確認です。そのほか、首都高速の『一の橋ジャンクション』、麻布警察署『一の橋交番』などにその名を残しています。
バス停3.jpg
 残念ながら都バスのバス停には、「麻布十番駅前」としか表記されていません。
バス停.jpg 

まだまだ疑問が尽きることはなく、・・・・次から次へと広がります。
これをまとめていて、さらなる疑問が次々にわいてきました。
 ◆一番~九番までの組はどこに住んだのか、なぜ地名として残らなかったのか?
 ◆なぜ渋谷川が渋谷区から港区に入る天現寺で古川と名を変えるのか、河川の名称が途中で変わるのは地理的な要因が多いようですが、ここは歴史的な要因があるのか?

・・・時間がいくらあっても足りません。


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