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東京の坂と橋106・・・小石川橋と甲武鉄道飯田町駅 [東京の坂と橋]

No日    付備      考
12009/04/25  インデックス  1   プロローグ~No.50
22009/08/14  インデックス  2   No.51~No.101
32009/08/19  インデックス  番外編 No.1~No.33
42009/08/19  インデックス  四方山話    No.1~No.19

上のリンクは、『東京の坂と橋』のインデックスにジャンプするリンクである
過去の記事はここからご覧頂くと探しやすいだろう

名前ふりがな別名所在地北緯東経全長
小石川橋こいしかわばし小石川門橋文京区北緯35度42分10秒東経139度45分02秒44m

小石川橋.jpg
小石川江戸切り絵図.jpg

飯田町駅.jpg

7月に、今回ご紹介する小石川橋のすぐお隣の後楽橋と水道橋をご紹介した。
その後続いてこの小石川橋を紹介するつもりでいたが、小石川橋を紹介するに当たって、鉄分の好きな私としては、是非はずせないものがあり、その後2回ほど取材を重ねて、ようやく筆を執ることとなった。
 ⇒後楽橋、水道橋はこちらをご覧ください

《小石川橋》
DVC00079.JPG小石川橋の名前の「小石川」というのは江戸時代からあった地名であり、「小石」が沢山ある川、即ち「小石川」が「伝通院(でんつういん、でんづういん)」の前を流れていたことからつけられた名前のようである。

残念ながら地名の由来となったこの「小石川」は現在は暗渠(あんきょ)となっている。

矢田挿雲の書いた『江戸から東京へ』の第八巻の冒頭を飾っているのが『小石川の流れ』という章である。
それによると、江戸時代の文献には「小石川という大川の入り江に白山御殿(現在の小石川植物園)あり、舟つなぎの老松があった」ことから、昔は小さな川ではなかったのだろうと紹介している。

明治時代の地図を見ると千川通りの道筋に川が流れている。
また、「巣鴨の西北から流れ出し、ネコマタ橋の下を、御殿跡(小石川植物園)の南にでて、伝通院の後ろから柳町をすぎ、嫁入り橋すなわちコンニャク閻魔の前、善雄寺のうしろから水戸候屋敷―現今の砲兵工廠に流れ入って神田川に落ちる」とも書かれている。

⇒猫又坂、白鷺坂

この界隈は、史跡が多く、中でも「小石川後楽園」と「伝通院」が有名である。

DVC00003.JPG 

「小石川後楽園」は、東京都文京区後楽にある東京都の都立公園で、文化財保護法により、特別史跡及び特別名勝に指定されている。

DVC00001.JPG水戸徳川家初代藩主である「徳川頼房(とくがわよりふさ)」が築いた庭園を、第二代の光圀(みつくに 水戸黄門で有名)が改修した7万平方メートル以上の広大な園内は、四季を通じて素晴らしい景色が楽しめる。

「後楽園」の名前は光圀が付けたものといわれ、中国の「岳陽楼記(がくようろうき)」にある「天下の憂に先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という言葉にちなんで命名したと言われている。
上の写真が小石川後楽園入り口、次が園内の写真だ。

 

「伝通院」は、徳川家の菩提寺(ぼだいじ)の一つであり東京都文京区小石川にあり、本尊は平安時代の僧侶である源信(げんしん)作とされる阿弥陀如来像である。

慶長7(1602)年に徳川家康の生母である「於大の方(おだいのかた)」がなくなると、紆余曲折はあるもののこの地に埋葬し、「於大の方」の法名である「伝通院殿」にちなんで、この寺の院号を「伝通院」としたのが、現在の「伝通院」の始まりである。 「増上寺(ぞうじょうじ)」に次いで徳川将軍家菩提所次席となり、「増上寺」・「上野寛永寺」と並んで「江戸の三霊山」と呼ばれた寺である。
境内には徳川氏ゆかりの女性や子どもが多く埋葬されている。

DVC00005.JPG
 

「小石川橋」の南詰はかつては江戸城の外郭門のひとつである「小石川門」があったところで、橋はそれゆえに「小石川門橋」とも呼ばれていた。
小石川橋近辺は江戸から東京へと変化する様子が溢れる地域である。

【現在の小石川橋】
現在の 『小石川橋』 は震災復興事業による橋で、昭和 2年(1927) に架けられたもの。
飯田町駅のあったころは、たくさんのトラックが通ったことであろうが、現在は交通量も少なく、片側1車線の存在感の薄い小さな橋となっている。

DVC00010.JPG

上の写真は、南側から小石川後楽園方向を見ているが、正面外堀通りの向こう側に聳え立つビルが、住宅支援機構だ。
トヨタ東京本社は、この左手に当たる。

次の写真は、外堀通りから南方を見たところ。中央線が高架上を走っているが、このあたりに小石川御門があった。

DVC00007.JPG

次の写真は、橋の上から西側の飯田橋方向を見たところ。

DVC00009.JPG

次の写真は、東にある後楽橋から小石川橋を望んだところ。

DVC00034.JPG

《飯田町駅》
DVC00008.JPG小石川御門のあった位置はほぼ中央線、総武線の走っている位置辺りで、付近にはモニュメントとして、門に使われていたであろう大きな石が置いてある。
そして、その南側に貨物駅としての『飯田町駅』があったのは、40代以上の人ならばご存知だろう。

冒頭で1963年(昭和38年)の航空写真を掲出したが、その写真をご覧いただくと、現在の地図と何箇所か大きく違っている点があることにお気づきのことと思う。

まず、現在の東京ドームのある位置に、かつては後楽園競輪の競輪場があった。
そして、野球場は、その右手に位置していた。
私が小学生の頃、後楽園の展望タワーからナイターをやっていた球場を見下ろすと、巨人の『背番号34』が投球している姿を見たことを覚えている。
そう、背番号34は伝説の400勝投手「金田正一さん」だ。

さらにもうひとつ、写真左手中央から飯田橋駅を出た中央・総武線は緩やかに右にカーブして、一直線に水道橋駅へと向かう。
そのカーブから直線に移らずに、そのままの円弧を描いて引込み線が写っている。
丁度Nゲージのジオラマで、中央に引込み線を引いてきて終着駅を作るノリである。
この引込み線の終着点が『飯田町駅』なのである。

1889年(明治22年)に新宿⇔八王子間に甲武鉄道が開業し、1895年(明治28年)には東進し、ここ飯田町駅が中央線の始発駅となった。
(その後も中央線は東進し、1912年(明治45年)には、その先の万世橋駅が開業し、1919年(大正8年)には東京駅に乗り入れた。
⇒万世橋駅はこちらをご覧ください)
1904年(明治38年)に飯田町⇔中野間が電化され、現在の通勤電車の元祖とも言うべき『電車』が走り始めた。
上の写真の千代田区の設置した碑には、「日本初の電車」と記されている。
その電車の運行に合わせて、円盤型自動信号機が設置されている。
(一部内容は千代田区設置の碑より抜粋)

1928年(昭和3年)には、飯田橋駅が開業し、電車の発着が無くなったが、1933年(昭和8年)までは、中長距離列車のターミナル駅としてにぎわった。
それ以降の中央線の中、長距離列車の発着は新宿へと移り、飯田町駅は貨物駅となった。
唯一山の手線の内側にある貨物駅として一時は栄え、1972年(昭和47年)には流通倉庫も作られ、主に周辺の出版、印刷関係の工場に紙を運ぶ流通拠点となった。

1985年(昭和60年)の最盛期には、一日11本の貨物列車が到着していたが、その後印刷関係の大手工場は郊外へと移転し、加えて当時の国鉄がコンテナ輸送を推進したことから、荷物の取扱量は減少し、1997年(平成9年)には貨物列車の運行が無くなって、1999年(平成11年)には駅としては廃止された。
駅の規格が古く、大型の有蓋貨車が入れなかったことも廃止となった遠因となっている。

その後、この跡地の再開発で、JR貨物と、大和ハウス工業が共同でオフィスビルを建築している。
ここのビルにある2階のレストランは、誰でも利用できて1000円バイキングとなっている。
和、洋、中の料理が並び内容も味も超充実していてなかなかのもので、たまに利用している。
そのビルの一階には、JR貨物の展示室がある。
以前は、一階ロビーにかなりの広さの展示スペースがあったが、現在は大幅に規模が縮小されている。

展示スペースの中でとりわけ目を引くのが、EF12 1のプレートと、在りし日の雄姿の写真である。

DVC00017.JPG
DVC00019.JPGDVC00018.JPG

このEF12 1号機は、1940年(昭和15年)に制作された戦前を代表する貨物用電気機関車である。
総数17両制作され、1970年代まで活躍していた。
上の勇姿は、1969年(昭和34年)の新宿駅付近である。

その脇に修理記録の原簿が展示されている。
内容を見ると、この機関車も大変な経験をして尊い命を失いながら、戦後、日本の復興のために健気に走り回って、日本が豊かになっていくさまを見守ってきたと思うと感慨深いものがある。

DVC00020.JPG

上の写真ではわかりづらいと思いが、機銃掃射を受けた痕が克明に記され、その修復の様子が記録されている。


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コメント 13

kotobuki1946

そうですか。 今の後楽園は水戸藩のお屋敷だったんですね。

by kotobuki1946 (2009-09-23 04:41) 

emu310

しまった!
二回目です。
昨日の日中、ゆっくり読ませてもらうつもりでしたが
忘れてました。
とても濃い記事、朝のひと時では読みきれません。
今日こそ、あとでゆっくり読ませていただきます。
by emu310 (2009-09-23 06:32) 

はくちゃん

おはようございます
いつもありがとうございます。
(^^)/

by はくちゃん (2009-09-23 08:06) 

駅員3

moroqさん、emu310さん、ブラザーボブかきもとさん、xml_xslさん、kotobuki1946さん、トメサンさん、いわもっちさん、はくちゃんさん、takemoviesさん、enosanさん、かずのこさん、おはようございます。
ご訪問と、niceありがとうございます。

⇒kotobuki1946さん
はい、今の後楽園の姿はあの黄門様が築いたようですね。

⇒emu310さん
いつもありがとうございます。
よろしかったらご感想などまた書き込んでくださいませ(^^)

⇒はくちっゃんさん
こちらこそ、いつもご訪問ありがとうございます。

by 駅員3 (2009-09-23 10:46) 

くまら

ご心配かけております。
また、温かいお言葉ありがとうございます^^
来月半ばには退院できると思います。
by くまら (2009-09-23 15:18) 

mwainfo

丹念な取材記事にいつも感心しながら読ませて頂いております。
by mwainfo (2009-09-23 15:56) 

さといも野郎

大変な思いをしたEF121って、結局残っていないんですか。。
なんだかさびしいですね。
by さといも野郎 (2009-09-23 17:34) 

八丁掘

ココら辺は比較的近所なのですが、球場やら高速道路やら大きな建物が建ってゴチャゴチャして見落としがちです。小石川後楽園・・・もう何年も入ってないなぁ~(^_^.)
by 八丁掘 (2009-09-23 21:32) 

しおつ

飯田町への貨物列車は一度撮影に行きました。
市ヶ谷付近で撮ったと思います。
機関車はもうEF65でした。
by しおつ (2009-09-23 22:16) 

駅員3

genさん、@ミックさん、kskouzikさん、Cyoroshiさん、HALさん、ガンバルおやじさん、キャラハンさん、くまらさん、今造ROWINGさん、magikalkidさん、ほりけんさん、mwainfoさん、masakingさん、響希さん、お茶屋さん、さといも野郎さん、swm104さん、nyancoさん、qoo2qooさん、kazukazuさん、八丁堀さん、小父蔵さん、単騎さん、schnitzerさん、しおつさん、おはようございます。
ご訪問と、niceありがとうございます。

⇒くまらさん
お大事になさってください。ご退院後にまた楽しい記事をお待ちしています。

⇒mwainfoさん
いつも、ありがとうございます。
ついつい自分の好奇心を満たそうと、色々調べてしまいます(^^;

⇒さといも野郎さん
はい、解体されてしまったみたいですね。
その後改めて調べてみたら、EF12型で最後まで走っていたのが1号機と5号機だったようで、廃車になったのが1981年とわかりました。
出来れば保存していただきたかったと思います。

⇒八丁堀さん
ここら辺も一歩裏通りに入ると、昭和の面影がたくさん残っているのに、表通りの風景はどんどん変わっていきますね。

⇒しおつさん
そうでしたか。
古いものがなくなって、どんどん新しくなっていくのが、いいことなのかどうか・・・・一長一短ですね。
by 駅員3 (2009-09-24 07:43) 

kiyotime

ここよく通りますよ。 西神田のランプに抜けるのに、、
よく白バイが隠れてますね、、
by kiyotime (2009-09-24 23:52) 

駅員3

ナカムラさん、デザイン屋さん、かいさん、takeさん、kiyotimeさん、おはようございます。
ご訪問と、niceありがとうございます。

⇒kiyotimeさん
あ、なるほど。
私はここら辺界隈は歩きのみです・・・・そういえば、よく白バイ見かけますね(^^)

by 駅員3 (2009-09-25 07:40) 

da-kura

おっと!職場から至近距離だぁ!
by da-kura (2009-09-26 08:05) 

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