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東京の坂と橋15,16,17,18・・・菊坂、梨木坂、胸突坂、新坂 [東京の坂と橋]

名前ふりがな別名所在地北緯東経全長高低差
菊 坂きくざか文京区本郷4、5丁目境北緯35度42分34秒東経139度45分26秒630m10m
梨木坂なしのきざか梨坂文京区本郷5丁目北緯35度42分38秒東経139度45分23秒165m 8m
胸突坂むなつきざか文京区本郷5丁目北緯35度42分41秒東経139度45分21秒140m10m
新 坂しんざか文京区本郷5丁目北緯35度42分42秒東経139度45分22秒170m11m

菊坂界隈.jpg

菊坂切り絵図.jpg
菊坂断面図.jpg

まず、菊坂界隈の現代の地図をご覧いただきたい。
付近には11ヶ所もの坂があり、それぞれに風情のある名前がついている。
今回は、『菊坂』にスポットを当て、菊坂に続く『梨木坂』、『胸突坂』、『新坂』についてスポットを当ててみたい。
当初『本妙寺坂』もここで述べようと思ったが、本妙寺にまつわる話しに言及すると書ききれなくなってくるので、稿を改めたい。

《菊 坂》
菊坂は本郷三丁目交差点北側から北西方向に630mを標高差10mを下るなだらかな坂である。
本郷台地の西縁から谷状に本郷台地を本郷三丁目に向かって切り込んでいくような地形のため、菊坂の左右には登り坂が多い。
江戸時代にこの谷間には菊畑があり、菊栽培をするものが多く住んだことから、坂上を『菊坂台町』、坂下を『菊坂町』と呼ばれていたようである。
江戸きり絵図にも、その町名は残っている。(上図切り絵図をご覧いただきたい)

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これは、本郷三丁目川の本郷通り(国道17号〔中仙道〕)から菊坂の入り口を望んだものである。
上の江戸きり絵図をご覧いただくと、右下に、『真光寺、天神』とあるが、その下の辺りが本郷三丁目の交差点となる。

現在の真光寺はお寺そのものは戦災にあって、世田谷に移転してしまったが、お墓と、観音様が残っている。
また、本郷三丁目交差点と菊坂入り口の間には本郷薬師の山門と、山門を入った奥に祠が祭られている。

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菊坂を下っていくと、都心にありながら下町情緒豊かな商店街が軒を連ねる。

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坂の途中にあるお肉屋さんの『菊坂コロッケ』は学生に人気がある。
私とすれ違った若者達も「おい、菊坂コロッケ買って帰ろうか!」などと話しながらすれ違って行った。

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坂を1/3ほど下ると、左に上っていく坂が本妙寺坂となる交差点にやってくる。
昔はこの坂の名前となった本妙寺が右手の坂上にあった。
この本妙寺は、明治時代に巣鴨に移転したが、明暦の大火の火元で有名である。
また有名人の墓が多く、遠山の金さんもここに眠っている。

そのすぐ先の右手にあの『菊富士ホテル』があった。
上村一夫の『菊坂ホテル』は、この菊富士ホテルをモデルとした物語である。
明治35年に岐阜県大垣市から上京してきた羽田幸之助夫婦は、学生の多いここ本郷の地に目をつけ、学生向けの『菊富士楼』という下宿を始め、これがあたった。
その後1928年(大正3年)に5階建ての『菊富士ホテル』を開業する。

この宿に泊まった若人のなかから文学、芸術、思想、医科学、政治、経済各界に亘り多くの逸材を排出して、一躍有名になった
竹久夢二もここに宿泊した一人で、このホテルで数々の絵を描いているが、大正時代の菊富士ホテルの応接間には、竹久夢二が宿泊代代わりに置いていった大きな油彩の美人画が飾られていたという。
事実、夢二はここ菊富士ホテルで当時の人気モデル『お葉(本名永井兼代またはカ子ヨ、あるいは佐々木カ子ヨ)』を紹介され同棲生活を始め、1925年にお葉が夢二のもとを去るまで描き続けている。
残念ながら1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で消失して、50年の歴史は幕を閉じた。

現在は菊富士ホテルの跡地に石碑が残るのみである。

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さらに下ると、左手に宮沢賢治の下宿跡があり、さらにその奥には樋口一葉の暮らした旧居跡がある。
(詳細は「東京の坂と橋 四方山話8 ・・・文京区にゆかりのある文豪、歌人」をご覧いただきたい。) 

坂を下っていくと、未だにこのような風情のある建物も多く残っている。 
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また、一歩路地に入ると、未だに井戸が使われている。(ただし、飲用の際は沸騰させるように書いてあった)
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また、これは何かお分かりだろうか?
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かなり古いものであるが、現役の消火栓である。

さて、菊坂も下りきる手前に、あの樋口一葉も通ったといわれる伊勢屋質店が当時の明治時代の姿のまま現れる。

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この伊勢屋質店は、1860年(万栄元年)から続いていたが、残念ながら1982年(昭和57年)に廃業した。
店舗部分は1907年(明治40年)に改築され、土蔵は関東大震災で壁を塗りなおしたが、内部はほぼ1860年の創建当時の状態を保っているという。
この伊勢屋と樋口一葉のつながりは深く、若干24歳で亡くなった一葉の葬儀に伊勢屋の主人が香典を持って駆けつけたほどであった。

樋口一葉は、若くして父親を亡くし家長となった。
幼い兄弟を養うため、一葉はどんな思いをしてここ菊坂を歩き、伊勢屋質店を訪れたのであろうか。

 

《梨木坂》
昔ここには大きな梨の木があったことから『梨木坂』と呼ばれたといわれている。
また、菊坂の名前の由来となった菊畑がこの辺りからなくなることから『菊なし坂』と言われたとも言われている。

次の写真は、菊坂から梨木坂を望んだところである。
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次の写真は坂の上から菊坂方向を望む。
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梨木坂を登りきると風情のある建物が現れる。
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これは、鳳明館というホテルである。

《胸突坂》
梨木坂を登りきっると道は突き当たる。
その突き当りを左に折れると、再び急な坂を下りて菊坂にもどる。
この急坂が『胸突坂』と呼ばれている。
坂が急であったことから、その胸を突き出して登る姿から『胸突坂』と呼ばれるようになった。

写真は坂の上部から菊坂方向を望んだところである。
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《新坂》
文京区内に『新坂』は6ヵ所あるが、ここはそのうちのひとつで、江戸時代から『新坂』と呼ばれているそうだ。 

写真は坂下から望んだところである。
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次の写真は坂の上の大栄館前から坂下を望んだところである。
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この坂上に、前回触れた石川啄木の滞在した大栄館(当時は蓋平館といった)があった。
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啄木の本郷在住時代は、あまり恵まれているとはいえず、文学者の金田一京助の援助でしのいでいたようである。
この蓋平館で、あの有名な「東海の小島の磯の白砂に・・・」をどのような気持ちで詠ったのであろうか。

我が故郷でもある本郷界隈をあらためて歩いてみて、未だに江戸情緒・・・というよりも江戸人情を感じさせる街であるということを強く感じた。


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yamagatn

いつもご訪問くださりありがとうございます
なんとか庄内に到着いたしました
約10時間の運転でヘロヘロにつき
コメントは差し控えさせて頂きます
広告、ランキングがある場合は
協力クリックさせて頂きます
申し訳ありません 眠すぎです
by yamagatn (2009-01-04 09:57) 

Cyoroshi

桜坂ならぬ菊坂・・・歌のタイトルに使えそうですね?(笑
by Cyoroshi (2009-01-04 11:38) 

sera

3回に書いた本郷あたりの坂などを読みました。
よく調べましたので、感心しました。
歩いてみようかな、、、
ありがとうございます。
by sera (2009-01-04 21:27) 

さといも野郎

胸突坂きつすぎです(笑)
意外と結構古いものが残ってるんですね、東京って。
by さといも野郎 (2009-01-04 21:57) 

空兵ーS

樋口一葉や石川啄木が出てきて、やはり東京の坂はロマンチックですね。
by 空兵ーS (2009-01-04 22:41) 

STEALTH

あけましておめでとうございます。いつもご訪問有難う御座います。
今年も宜しくお願いいたします。
江戸慕情って感じですね。やはり、イキですな。
by STEALTH (2009-01-04 23:42) 

kotarobs

kskouzikさん、ガンバルおやじさん、いわもっちさん、BPノスタルジックカーショーさん、yamagatnさん、ぴーすけさん、Cyoroshiさん、お茶屋さん、Krauseさん、Yukiさん、shinさん、seraさん、さといも野郎さん、空兵-Sさん、STEALTHさん、ご訪問とniceありがとうございます。

⇒yamagatnさん
長時間のドライブお疲れ様でした。
今年もよろしくお願いいたします。

⇒Cyoroshiさん
文京区の坂で、歌で有名になった坂があります。
それは『無縁坂』です!
近日登場しますので、お楽しみに(^_-)☆!!

⇒seraさん
ありがとうございます。
まだまだ本郷界隈には面白いものがありそうで、ただいま発掘中です(^^)

⇒さといも野郎さん
ハハハ、胸突坂を上ってくる人の荒い息遣いが聞こえそうですよね(^^
文京区にはまだまだ、古いものが残っていますが、時代の波に飲み込まれて、どんどん少なくなっていっているようです。

⇒空兵-Sさん
そうですね、特に都心に近い坂は、さまざま人生模様が描かれているようです。
そんな片鱗でもお伝えできればと思います。

⇒STEALTHさん
おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
このblogから少しでも江戸情緒を感じていただければ幸いです(^^
by kotarobs (2009-01-05 08:09) 

kotarobs

takemoviesさん、西尾征紀さんおはようございます。
ご訪問とniceありがとうございます。
また遊びに来てくださいまし(^_-)☆!!
by kotarobs (2009-01-06 08:06) 

kiyotime

啄木の頃はさぞや見晴らしのいい丘だったんでしょうね。
胸突ってそういう意味だったんですね、、、
鼓動が激しくなるからだと勝手に想像してました、、、


by kiyotime (2009-01-08 23:45) 

やまがたん

ちなみに私の実家は菊坂にあります
珍しいものを久々に拝見させていただきました
by やまがたん (2009-01-09 08:01) 

kotarobs

やまがたんさん、kiyotimeさんおはようございます。
niceとコメントありがとうございます。

⇒kiyotimeさん
きっと鼓動が激しくなるという意味もあったんでしょうね。
これがスキー場の斜面だとしたら、かなりの上級コースになるのではないかと・・・

⇒やまがたんさん
えっ、そうだったんですか。
私の実家は真砂坂上でした。
銭湯が好きで、よく鐙坂下の菊水湯(菊坂裏通り)に入りに行きました。
どこかですれ違っていたかもしれませんね。

by kotarobs (2009-01-09 08:16) 

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