東京の坂と橋63、64、65・・・幽霊坂、胸突坂、駒塚橋 [東京の坂と橋]
名前 | ふりがな | 別名 | 所在地 | 北緯 | 東経 | 全長 | 高低差 |
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幽霊坂 | ゆうれいざか | ― | 文京区目白台1丁目 | 北緯35度42分51秒 | 東経139度43分21秒 | 304m | 17m |
胸突坂 | むなつきざか | 水神坂 | 文京区目白台1丁目 | 北緯35度38分秒 | 東経139度44分秒 | 313m | 17m |
名前 | ふりがな | 別名 | 所在地 | 北緯 | 東経 | 全長 |
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駒塚橋 | こまつかぱし | ― | 文京区関口1丁目、目白台1丁目 | 北緯35度42分43秒 | 東経139度43分24秒 | 23m |
今日は、目白にある椿山荘近くの二つの坂と、新目白通りから胸突坂に向かって入ってくると、神田川に架かる『駒塚橋』をご紹介しよう。
神田川から、北の目白通りに向かって 目白台地を上がっていく坂で、新江戸川公園をはさんで西側が『幽霊坂』、東側が『胸突坂』だ。
目白台地については、以前「なぜ文京区は坂が多いのか」でとりあげている。
⇒「なぜ文京区は坂が多いのか」はこちらをご覧ください。
まず、二つの坂を紹介する前に、新江戸川公園について、説明しよう。
【新江戸川公園】
江戸時代は、ここ神田川沿いから、目白台地上の目白通りまでが細川家の下屋敷であったが、1882年(明治15年)には細川家本邸となった。
目白台地の地形を生かし、台地からの湧水を引いて池を作った回遊式泉水庭園である。
入り口を入ると、すぐ左手に 古風な建物が出迎えてくれる。
1887年(明治20年)頃の建築で、細川家の学問所であった建物だ。
1960年(昭和35年)に東京都がこの地を買い取り、都立公園として整備された後、文京区に移管された。
【幽霊坂】
ここの幽霊坂も坂の標識はない。
新江戸川公園の入り口からだらだと登り始め、中ほどは急な坂になり、目白通りに出る数十メートルは、再びなだらかになる。
次の写真は、新江戸川公園入り口から北の方向を見たところである。
昼なお暗く、薄気味悪かったことから付いた名前だろうか。
現在でも、坂を上っていくと、切り通しの左右はコンクリートの擁壁と、その向こうからは鬱蒼とした木々が陽光をさえぎり、晴天のお昼時に行ったにもかかわらず、薄暗く人通りは少ない。
坂の途中、この先から急になる。
前方に車止めが見えるが、この先は歩行者専用の道となる。
道の右側にポリスボックスが置かれているが、ここら辺はT邸に近いからだろうか。
上の地図を見ると、新江戸川公園の北に『和敬塾』とあるのは、男子学生の寮だ。
旧細川公爵邸跡で、昭和30年に男子学生寮となったが、昭和11年に立てられた本館は、現在も保存されている。
次の写真は、左が坂の途中から、坂上をみあげたところ。
右の写真は、坂の途中から、坂下を見下ろしたところだ。
都心とは思えない緑多い中、遠くにはタワーマンションが垣間見えている。
目白通りから幽霊坂への入り口は、左に和敬塾、右に消防署にはさまれている。
ここを入ると、なだらかに下り始める。
進入禁止の標識の下には「私道に付き諸車進入おことわり」とある。
左の建物は和敬塾だ。
【胸突坂】
新江戸川公園前を東に進むと、左手に水神社(すいじんじゃ)が見えてくる。
神田上水(神田川)の守護神でもある。
文京区のホームページによると、「言い伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、
「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという。」と紹介されている。
この神社の脇を目白台上に一気に駆け上っていくのが、胸突坂だ。
最初の登りはかなりきつく、電動アシスト付き自転車をご婦人が「はぁはぁ」いいながら、休み休み押して上がっていった。
文京区の設置した坂の標識によれば、「坂が険しく、自分の胸を付くようにしなければ、登れないことから、江戸時代に急な坂によく付けられた名前だ」と説明されている。
以前取り上げた同じく文京区内の胸突坂もここに負けず劣らずの急坂であった。
⇒本郷の胸突坂はこちらをご覧ください。
坂を上り始めると、右は『関口芭蕉庵』、左が永青文庫がある。
永青文庫は、旧細川家下屋敷の一部で、現在は美術館となっている。
坂の途中には、休憩できるようなスペースもある。
江戸時代は、雨や雪などで、足元が悪いときには、歩くのは至難の業だっただろう。
関口芭蕉庵は、松尾芭蕉が神田上水改修のために、ここら辺にあった水番屋に住んだことが始まりといわれている。
戦火などで、昔の建物は消失し、現在の建物は戦後に復元されたものだ。
安藤広重は、ここ関口芭蕉庵付近を描いている。
【駒塚橋】
上の江戸切り絵図の橋の位置は、水神社との位置関係から、現代よりも川下に架かっていたのだろうか。
残念ながら橋の名前の由来は、わからなかった。
色々文献を見ると、江戸時代のものに『駒留橋』という名前がこの近辺で見つかるが、他に橋はないので、駒留橋とも言ったのだろうか。
次の写真は駒塚橋から下流を見たところ。
正面がフォーシーズンズホテルになる。
おはようございます。
「椿山荘」周辺の坂、なかなか、キツかったです。。。 (^^;
by いわもっち (2009-04-28 06:08)
幽霊坂、夏場は木陰が涼しそうですね。
しかし都心とは思えない光景ばかりですね、、
by kiyotime (2009-05-01 01:27)