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東京の坂と橋14・・・乃木坂―幽霊坂 港区赤坂 [東京の坂と橋]

名前ふりがな別名所在地北緯東経全長高低差
乃木坂のぎざか幽霊坂港区赤坂8~9丁目北緯35度40分05秒東経139度43分41秒170m7m

 

DVC00106.JPG乃木坂地図.jpg

乃木坂と呼ばれるようになったのは、大正元年9月に乃木大将夫妻が自刃した後に赤坂区議会が改名を議決したことに由来する。
それ以前は、江戸時代より幽霊坂と呼ばれていた。
また、現代は標高差7mと急さかとはいえないが、江戸時代は、登るのが急で大変だったことから、『膝折坂』とも呼ばれた。
また、明治時代には、外苑東通りに行合うため、『行合い坂』とも呼ばれていたようだ。

DVC00107.JPG
乃木神社から西の青山方面を望む

ここら辺は、他の幽霊坂と違い、お寺さんやお墓も無いのに、なぜ幽霊坂と言われたのかは定かではない。
江戸時代の切り絵図をみると、ちょうどこの近辺が空白地帯になっていることから、かなりうら寂れて、夜ともなるとお化けでも出そうなところであったのだろうか。

乃木坂S22.jpg
昭和22年 米軍撮影

乃木坂S38.jpg
昭和38年

乃木坂現在.jpg
現在

 

DVC00092.JPGDVC00095.JPG

坂の名前の由来ともなった乃木希典の自宅が今でも坂の頂上部分の北側に現存する。
建物は、乃木大将の遺言により東京府に遺贈された後、現在は港区に移管されている。

乃木将軍.jpg 

乃木大将は、1849年12月25日に長州藩藩士の子供として江戸で生まれた。
かの吉田松陰は親戚にあたる。
若いころは放蕩三昧の生活をしていたが、ドイツに留学後、「プロイセンの軍人魂」に感化され、古武士のような質素な生活になったと言う。
乃木大将の武勲はなんと言っても日露戦争における二百三高地の攻防であろう。
1905年1月1日に旅順要塞のステッセルロシア司令官は、日本第三軍の司令官である、乃木大将に降服を申し入れ、同年1月5日に水師営で会見が持たれたことは有名である。

水師営の会見.jpg
日露戦争中は、一般国民にまで戦下手と罵られた乃木大将であったが、水師営の会見をはじめとする、多々の徳行、高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。
諸外国の報道機関では乃木大将を日本軍人の典型として紹介し、明治時代の日本人の地位を大きく向上させることに一役買った。
戦後の乃木大将は、戦死したり怪我をしたりした部下の話しをきくと、見舞金を送ったりしたようである。
また、自ら開発に参加した戦傷者のための乃木式義手を製作、配布したりした。

乃木大将は明治天皇の信任も厚く、裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられた。
昭和天皇も乃木大将を慕い、晩年まで生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けたという。
乃木大将は1912年(大正元年)9月13日、明治天皇大葬の夕に妻とともに、自刃した。
遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。
このときに乃木大将は

 うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

という辞世の句を残している。
乃木大将は、陸軍入隊後連隊長として西南戦争に従軍している。
このとき、軍旗の旗手が打たれて軍旗が士族軍に奪われた。
乃木大将は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蛮戦をくりかえし、負傷して野戦病院に入院しも、たびたび脱走しては戦地に赴こうとした。
ある日、乃木大将は切腹を図ったが、すんでの所で取り押さえられた。説得する兒玉源太郎に対し、乃木大将は、「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない。
兒玉もついに折れ「わかった。しかし切腹するときは必ず自分に知らせよ」と誓わせた。
後に乃木大将が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。
乃木大将が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。それまで単なる目印・マークでしかなかった軍旗を神聖視する傾向は、この時より定着したといわれる。

乃木邸の東隣に乃木神社がある。

DVC00096.JPG


乃木将軍・静子夫妻を祭神と仰ぐ神社で、創立は大正12年11月1日。
昭和20年5月に戦災で消失後、昭和37年に復興されている。
話しは横道にそれるが、この乃木神社を母体としたボーイスカウトがボーイスカウト港第18団である。
乃木大将は1910年(明治43年)、英国王ジョージ5世の戴冠式に明治天皇の名代として参列される東伏見宮依仁親王・同妃両殿下に東郷大将等と共に随行した。
その際、英国キッチナー元帥の紹介でロンドンのボーイスカウトの集会を視察され、ボーイスカウトの創始者であるベーデンパウエルが乃木大将と会見している。

BPと乃木将軍.jpg

学習院院長を務め、青少年教育に打ち込まれていた乃木は、ボーイスカウト運動に非常な関心を示して、帰国後に片瀬海岸でボーイスカウト式キャンプを実施している。
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kiyotime

昔この近くにオフォスがあったので、
この辺りはよく知っています。
しかし、乃木大将が日本のBS活動のパイオニアとは
知りませんでした、、、 
by kiyotime (2008-10-12 21:43) 

kotarobs

kiyotimeさん、こんばんは
いつもniceとコメントありがとうございます。
ベーデンパウエルが1907年にブランウシー島で実験キャンプを行なった翌年の1908年には駐ベルギー大使の秋月左都夫が当時の文部省にボーイスカウト運動を報告しています。
今のボーイスカウト日本連盟の礎を築いたのは、ご存知後藤新平、三島通陽ですが、乃木大将がBPと面談し、ボーイスカウト運動に多大の関心を寄せていたと言うのは、「知る人ぞ知る」ですね。
by kotarobs (2008-10-12 22:12) 

くろうら

さすがに詳しいですね。
乃木大将について知らなかった事がいっぱいです。

私も乃木坂のすぐ近くの事務所で仕事してました。
転勤後、社用車を置けなくて難儀した思い出が。
なんせ月極の駐車場代が月13万円(!)
当時住んでた部屋の家賃より高いなんて!
昼飯も高かったなぁ・・・

nice!はso-netのユーザーしか押せないんですね~。
残念!
by くろうら (2008-10-13 13:45) 

kotarobs

りろうらさんこんばんは
いつもコメントありがとうございます(^-^)

へ~・・・月13万円の駐車場なんて誰が借りるんでしょうねf^_^;
by kotarobs (2008-10-13 18:57) 

kotarobs

さといも野郎さんおはようございます。
niceありがとうございます。
by kotarobs (2008-10-15 08:07) 

Cilas

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by Cilas (2018-04-14 04:31) 

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